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3 Blood engagement




 契約を交わした、あの日。
 俺は、遠い憧れと無垢な想いを永遠に手放した。




  







「志田。これ、旧校舎の2Fの実験室に運んどいてくれ」
 高校2年になって最初の日直当番で放課後に職員室に行くと、化学教師が試薬の入った箱を差し出してきた。俺の顔を見て眉を寄せる。
「なんだあ? にやにやして。旧校舎に行くのは普通みんな嫌がるんだぞ」
「……みんなが嫌がるのを俺に頼むんですね」
「頼みやすいからなあ。志田は」
 理不尽だな、と思いながら、相変わらず薄気味悪い旧校舎の廊下を浮足立って歩く。
 旧校舎の2Fといえば、『第二音楽室』だ。
 今も時々、こういう用事のついでに第二音楽室に行くことがある。窓から見える景色も好きだけど、本音を言えば、黒海先輩に会えるかもなんて淡い望みもあった。けど、この望みは一度も叶ったことがない。
 試薬を実験室に置いてから、諦め8割、期待2割で第二音楽室に向かう。
「……え」
 入学式の日と同じように防音扉が微かに開いている。
 急に緊張してきた。
 もし、黒海先輩がいたとして、それからどうしよう。いざ会ったら、言葉が出なくなりそうだ。
 扉を押して、教室の中を覗く。
 先輩の姿は、なかった。
 ほっとしたような、がっかりしたような。窓には暗幕が引かれていて教室内は薄暗い。
 入ってみると、教室には不思議と花の香りが満ちていた。開いた窓から風が吹き込んでいるのだろうか。廊下から吹き込む春先の風が肌寒くて身震いする。
『ギイイイイ』
 悲鳴みたいに軋んだ音に驚いて振り返った。閉まった防音扉が、そのまま沈黙している。
「風、だよな」
 ……風で、この厚い防音扉が閉まるだろうか。
 急に気味が悪くなった。
 この寒気を意識してしまうと、怖くてたまらなくなりそうだ。
 窓辺を見ると、あの椅子がいつもの位置にある。暗幕の隙間から細く入る春の陽に照らされていて、ほっとした。椅子の傍に行って、薄ら寒い部屋の空気を変えるために暗幕に手をかけた。
 ふと、視界の隅で何かが動いた。
 ひくついた息を潜める。冷や汗が出てくる。
 ピアノの陰――人だ。人がいる。
 壁に背をもたせて、うずくまっているように見える。
 心臓が早鐘のように打った。浅い呼吸を抑えて目を凝らすと、その人影は立てた片膝に小さな頭を預けて長い手足を投げ出している。
「……黒海、先輩?」
 項垂れるように俯いてるから表情がわからなかった。けど、でも、確かに先輩だ。
(眠ってるのか――いや、なにか……)
 様子が変だ。
「先輩」
 ここから声をかけても反応がない。嫌な予感がして、そっと近づく。
 一見して、肌は青白く、血の気がなかった。
 不安に襲われながら、あわてて先輩の傍にしゃがむ。
「先輩、黒海先輩――」遠慮がちに肩を揺する。
 と、その体がぐらりと傾いて、床に崩れるように倒れた。
「なっ……」 
 顔色が真っ青だ。苦しそうに微かにひとつうめいて、ぐったりしている。
「だ、誰か――誰か呼んで来ます……っ」
 立ち上がろうとしたら、強く腕を掴まれた。
 うっすらと黒海先輩の目が開く。
「あ……」
 赤い。
 黒いはずの瞳が、赤い――。
 暗幕がひかれた薄暗い教室なのに、先輩の瞳は発光しているように、闇に赤く浮かび上がって見える。
 ――そんな。こんなことって、あるのか。
 自分が見ているものが信じられない。無意識に体がぶるっと震える。
 先輩の唇が小さく動いている。耳を凝らしても聞き取れなかった。
「……が、……し、い」
「ほしい……?」なにを、と考えてみて思いついた。「水ですか? も、持ってきます」
 でも黒海先輩は、立とうとした俺の腕をしっかり掴んだまま離してくれない。弱っている人の力とは思えないほど、強く。
「あの、俺、水を――」言いかけて、視界が回った。
 天井が見えた、と思ったら、先輩が俺に覆い被さっていた。
 突然のことで何も反応できずに、ただただ先輩を見上げる。
 冷たい熱を孕んだ赤い瞳が、俺を見下ろしていた。
「……血が欲しい」
 ――"殺される"。
 頭の中で、切れかけの非常灯みたいに警告灯が点滅した。思うより早く、体が逃げようとする。
 それを許さない力で、手で口をふさがれた。
「ん゛、んん゛ーっ……!」
 顔を横向きに床に押さえつけられる。
 その瞬間、わかったんだ。
 教室に満ちた花の香りは、黒海先輩から放たれている。先輩の下でがけばもがくほど、どんどん香りが強くなった。まるで数千の花に取り囲まれているようで、頭の芯が痺れてくる。
 先輩の顔が近づく。晒された俺の首筋に、息がかかった。
 こぶしで胸や肩を叩いても、びくともしない。尖った感触が、首筋を滑る。
 ――怖い……!
 身を捩っても押しのけようと力を振り絞っても、黒海先輩から逃げられない。助けを呼ぶ声も、先輩の掌に消えてしまう。
 抗う術が、なかった。
 尖った先が肌にめり込むほど強く押し当てられて、俺は思わず強く目を閉じた。




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