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 ……先輩が、動きを止めた。
 刺激しないように息を殺していると、圧し掛かっていた先輩の体がぞろりと俺の上から退く。
 口を覆っていた手も一緒に離れて、酸素を求めて唇が勝手にあえいだ。
「ぷはっ、はあ……っ」
 解放された体が脈打っていた。ガクガク震えがくる半身を起こして見ると……黒海先輩は、さっきまでと同じように壁にもたれかかっていた。
 肩で息をして、やっぱり苦しそうにしている。
「せ、先輩……」
「……行け……」
 俺が混乱して動けずにいたら、苛立ったように先輩が床を叩く。
「さっさと行け……死にたいのか……!」
 迫力のある声に、びくんと体が竦む。
 いつもの冷たく殺伐とした気配が千倍にもなった殺気が、もろに俺の体を撃った。ひ、と小さく声が漏れて転がるように走る。扉に飛びついて、体で押し開けた。
 吹きこんだ冷たい春風が頬をなでた瞬間、ふと我に返る。
 手が震えてる。脚も。どうしようもなく震えてしまう全身を落ち着かせるように深呼吸をした。
 振り向くと、やっぱり黒海先輩はぐったりと壁に体を預けて、天を仰ぐように荒い息をしている。
 目の前にあった身の危険が去ってみたら、急に先輩が心配になった。
 喘ぐように息をする姿に、警戒しながら近づいて喉から声を絞り出す。「せ、先輩」
 呼びかけに返事はない。返事をする余裕もないみたいだ。傍に膝をつく。
「なにか……持病とか、発作ですか? 薬があるなら、俺がとって来ますから」
「……俺に構うな」黒海先輩は、近くに寄った俺の肩を弱々しく押した。
「でも、具合が悪そうです、なにかできることないですか」
「ない。行け」
 凄味のある低音で言った先輩の口元に、目が釘付けになる。
 両の八重歯が鋭く尖って見えた。まるで、牙みたいに。
 赤い瞳と、牙――俺は呆然と、まるで口だけ空滑りするように言葉にしてしまった。
「ちがほしい、って……血がほしい……? 血液のこと、ですか」
 黒海先輩の体が強張る。
「さっき俺に、何しようとしたんですか……」
 先輩は黙っている。辛そうに壁にもたれたまま何も言わない。
「その赤い目、なんなんですか? 先輩は――」
『美しい鬼に気をつけて』
 頭の中で、おばあちゃんの声がした。
『奴らはいつも血を探している、人の姿をした獣だよ。絶対に近づいちゃダメ』
 俺は、先輩を見つめたまま言葉を失っていた。
(……そんなはずない。ありえない。おばあちゃんの言葉は現実の話じゃないんだ、きっとおとぎ話だ)
 だってまさか黒海先輩が、そんな――。
 混乱と衝撃と、信じられない、信じたくない想いが頭を巡る。泣きたいほどの胸苦しさで心がいっぱいになるのを、唇を噛んで我慢した。
 肩で喘いでいた黒海先輩の目が、俺を睨みつけて光った。
「……俺が、正気の内に出て行け……余計な詮索するな」
「俺の血を飲んだら、楽になるんですか」
 信じられない、という風にきつく眉を寄せた先輩が目を眇める。「……なに、言ってんだおまえ」
 なんでそんなことを言ったのか、自分でもよくわからない。放っておいたら先輩が死んでしまうかもしれない、助ける方法があるなら知りたいって思った。それだけだったんだ。
「俺、なにをすればいいですか」
 震える声を絞りだした俺に、荒い息を吐いた黒海先輩が、目を細めた。





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