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 その生徒は、いつもいない。
 朝の教室で見たのは、もう5日も前だ。
 返事がないとわかっている名前を呼ぶ。
「育井田(いくいだ)」
 一瞬の空隙。
「……柄本ー」
「はい」
「及川」
「うーす」
 毎日変わらない点呼の中、空っぽに静まり返っている席には夏の風になびくカーテンの影が落ちていた。




 あなただけ




「育井田どうしてるか知ってる?」
 朝のホームルームが終わって、5,6人で輪になっている男子生徒たちに声をかける。
「さあー」
「育井田が朝いないのなんか、いつもじゃね?」
「あのさー……友達だろ? 本人から何か聞いてないの」
「南(みなみ)ちゃんが知らないのになんで俺らが知ってんのさ」
「担任をちゃん付けで呼ぶな」生徒を軽く小突く。
 育井田は春の終わりからここ数ヶ月、教室にいないのが当たり前で、他の生徒たちももはや話題にもしない。
「まあいいや……連絡もらったら教えてくれよ」
「うーい」

 公立高の教師になって2年目に、初めて任されたクラスは予想外の3年生クラスだった。
 受験生なんて、普通はベテランの教師が担任になるんだと思うけど、生徒との関係構築がうまい、というありがたい評価を頂いた結果、デリケート中のデリケートな思春期の学生たちを見ることになってしまった。
 責任重大。でも俺はやる気だけはある。
 教師という仕事は俺にとって天職、と自分で思ってはいる。生徒からすれば話しかけやすい教育実習生みたいな奴ってぐらいの認識だと思うけど。
 この、初めて受け持った高3クラスでひとつだけ心配なのが、育井田陽介(いくいだようすけ)のことだ。
 育井田は俺のクラスで一番大人びている。
 はっきりした目鼻立ちと明るめの髪は、居場所のわからない外国人の母親譲りらしい。
 ブレザーのサイズが間に合わなくなりつつある長い手足を悠々と伸ばして、一番後ろの席からクラス全体を眺めるように過ごしている様子は、教師の俺でも少々気後れする落ち着きぶりで。
 最初の席替えで一番後ろの窓際の席になったのが気に入ったらしく、2度めも3度めの席替えの時も、窓際になった生徒と席を代わってもらっていた。
(空が、見えるのがいいんだろうなあ……)
 育井田の、ぼんやりというより熱心に空を見上げる姿は、授業に集中しろよ、と声をかけるのも憚れるきれいな横顔だ。
 成績も上々、生活態度も問題ない。
 はじめは、クラスの中で一番安心な生徒だと思っていた。
 けれど、6月の中頃から空席にすることが増えてきた。
 夏休み間近の今は、朝はさっぱり姿を現さない。
 職員室でも、他の教科の先生に「育井田が授業に出てこないことがある」と心配のお声を頂いていた。
 友人関係でトラブったわけではなさそうだ。というより、育井田はクラスメイトとそれほど濃い付き合いをしていない。
 女子が放っておかなそうな見た目に反して、クラスメイト達は育井田を遠巻きに見ていた。いじめられているわけじゃなくて、大人び過ぎていて共通の話題が見つからない、って感じだ。下手をすると俺よりも落ち着いて見えるから無理もない。
「何が原因なんだ……?」
 ただのサボりならまだいいんだけれど(いや、本当は良くないぞ)、素行が悪化しているのなら心配だし。
 ただ、不登校ってわけでもなく、昼になれば校内で見かけることもある。
 そう、今みたいに。
「育井田」
 3限目が終わった廊下で、眠そうにあくびを噛み殺した育井田の姿に声をかける。
「……っす」
 完全に見下ろされて、内心、一瞬ひるんだ。
 また背が伸びたんじゃないか?
 成長期の男ってやつは、個人差はあるもののたけのこみたいにぐんぐん伸びるもんだから。
 髪色もずいぶん明るくなった。地色では通らないほどの見事な茶色に染まっている。さすがに校則違反だからなにか言った方がいいんだろうけど、それよりも先にこっちの話だ。
「朝のホームルーム出ないとダメだぞ? まだ、単位が危ないってほどじゃあないけどさ」
「でしょ。計算してるんで大丈夫です」
「そーいう問題じゃないんだよっ」
 ふと、育井田の向こう側の頬に違和感を感じた。
「あれ……どうした? 頬のとこ」
 腫れているように見える。
 育井田は面倒そうに、もう充分に男っぽい手で頬をひと撫でした。
「親知らずが腫れて」
「……じゃないだろ、痣になってるぞ。殴られたんじゃないのか」
 喧嘩かな。
 ……なにか厄介なことに巻き込まれてる気がする。
「大したことじゃないんで」
 育井田が、タイミング良く鳴った授業開始のチャイムを口実に踵を返して行こうとする。
「育井田! 後で職員室来て!」
「……めんどくせー……」
「返事はっ」
「はいはい」
 振り返りもせずに手を振って歩いて行く背中を見ながら、ため息した。
 どうにも掴めないんだ。
 飄々としていて、他の生徒みたいに簡単に心の内を読ませない。
 その日、育井田は帰りのホームルームに姿を現さず、職員室にも顔を見せることはなかった。



 ◇



「……育井田」
 腕組みして下駄箱で待ち構えていた俺の仏頂面に、登校してきた育井田が一瞬面食らった顔をした。最近、3限から出てくる事が多いってのはもう把握してるんだからな。
「昨日、職員室に来いって言ったよな……?」
 精一杯の睨みを効かせるものの、育井田に面倒そうにため息をされてしまう。
 ……俺、舐められてるな完全に。
「忘れてました」
「ちゃんと俺と話をしろって」
「別に、話すことないですよ」
 涼しい顔で横を通り過ぎて行こうとするのを、とっさに腕を掴んで止める。
「説教しようってわけじゃないんだから逃げるなよ。心配なんだって」
 ふと、育井田の表情が陰った気がした。
「ここのところ、朝は全然来れてないだろ。いつも眠そうだし」
「……朝弱いんで」
「前はそんなじゃなかった」
「暑いの苦手なんで」
 ああ言えばこう言うーー。
「育井田は成績いいんだし、大学もいいところ狙えるんだぞ。大事な時期なんだからさ、悩みがあるならーー」
「……うるせーな、ほっとけよ」
 育井田の苛ついた声に、はっとした。
 感情を見せたところなんてはじめて見た。なにか、触れてはいけないところに触ってしまったみたいだ。
「……そんな言い方ないだろ」
 俺の方が大人だし、担任だから。けじめはつけないと。
 育井田は、頭をガリガリ掻いて、俺を見据えた。
「職員室で、生徒の管理ができてないとか言われたんですか」
「はあ? 俺は心配して」
「……生徒のプライベートに口出してんじゃねーよ」
 心底、うざそうに言われて、さすがにカチンと来た。
「教師は生徒のプライベートを気にするもんなんだよ! しかも担任なんだから!」
 育井田が、舌打ちして歩いて行ってしまう。
「ちょっと、待てって!」
「それ以上なにか言ったら、俺、もう学校来ませんから」
 そう捨て台詞を残されて、俺は黙るしかなかった。





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