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 ◇


 ーー教師失格。
 なんて言葉が頭に浮かんだまま、俺はタバコ臭い飲み屋で目の前の刺し身を睨みつけていた。
「なんだどうした、辛気臭い顔してー」
 ほろ酔いで笑い声を上げてる大学時代の同期たちが恨めしい。
 育井田の顔がぐるぐる頭を回って、どうにもモヤモヤする。
「あー、何時?」
「もうすぐ10時」
「二次会行くか、二次会!」
「カラオケか? それともまた飲み屋か」
「せっかく新宿来てるんだから遊ばねえ?」
 もやもやが止まらない。あー、ダメだ。
「……俺、今日はもう帰る」
 なんだよ付き合い悪ぃなーって声を背中に受けながら、ネオンと人混みでギラギラする新宿をざかざか歩く。
『……うるせーな、ほっとけよ』
 あの、育井田の据わった声が何度も耳の奥で響く。
「……くそっ」
 俺の何がまずかったんだろう。
 説教臭かった?
 なにか、デリカシーのないことを言ってしまったとか?
「……ほんと難しいな、あのぐらいの年頃って」
 自分も通った道だからわかる。
 育井田が大人っぽいからって、俺に甘えたところはなかっただろうか。
 末っ子に生まれた俺は、昔から甘え上手だけど頼りないって言われることが多かった。それを反省して、生徒たちの前では先生らしく振る舞ってるつもりだったんだけど。
 相談にだって、いつでも乗るつもりで。
「……ただの、独り善がりだったのかなー……」
 夜の繁華街の、いかがわしい看板を視界に入れないように歩いていたら、道の先にあってはいけない姿を見てしまった。
「……育井田!」
 弾かれたように俺を見た顔は、口に出さなくても、げ、って言っていた。
 ここは新宿だ。新宿も、歌舞伎町。夜は酔っ払いたちで賑わう日本有数の歓楽街。
 そんなところでいかにも店の従業員って感じの、シャツに黒ベストな姿で立っている自分の受け持ちの生徒の姿を見て、声をかけずにいられるわけがない。
 慌てて走り寄って、逃すまいと腕を掴む。
「おま……こんな時間にこんなところで何やってんだよっ」
「あんたこそ、教師が金曜の夜にーー」
「大学の同期と飲み会だよっ、それより育井田っ」
 育井田は、気まずそうに頭を掻いた。
 ワックスで後ろに流すように髪をキメていて、およそ高校生には見えない。それが無性に胸をざわつかせる。
「……バイトです」
「見ればわかる」
 俺がぎゅっと見つめ続けると、育井田は観念したようにため息した。親指で、道向こうで白とピンクに輝くリゾート風の店舗の入り口を指した。
「あの店で、厨房とボーイのバイト」
 驚いて言葉が出てこなかった。
 店の入口から、ドレス服姿のきらびやかな女性がふらふらと千鳥足の男性客と一緒に出てきたりしている。
「……キャバ、クラ……?」
「まあ」
 これって、一般男子高校生がするバイトか?
 こういう時は、なんて言えばいいんだろう。
 まずは、注意……するんだよな。夜8時以降のバイトは校則違反だぞ、って。
 でも、たぶん今はそうじゃない。今、俺が訊きたいのは。
「……本当にどうした?」
 育井田が一瞬俺を見て止まる。
「なにかあったのか? 生活できてるのか? 話なら俺でも聞けるんだからさ」
 渋い表情をした育井田が渋々と唇を動かす。
「なんもないですって」
 この年で水商売に近いバイトってのは、やっぱり何か意味があるものだ。育井田が夜の世界に片足を突っ込んでいるっていうのなら、担任としても見過ごせない。
「何もなくないだろ、授業もまともに出れてないのに。バイト何時まで?」
「……2時」
 片付けして帰って支度して寝たら少なくとも3時過ぎるじゃないか。
「それじゃあ朝のホームルームも出れないわけだよ……」
 心底がっくり来て、頭痛がする。「なんでここでバイトしてるんだ?」
 育井田はぴたりと口を閉じたまま、俺から目を逸らした。もう、俺の言うことは一切受け付けませんって顔だ。
 スッと俺の手を解いて背を向けて店に戻ろうとするから、その背中を慌てて掴む。
「ちょっ、待てって」
「店戻らないとどやされるんで。……離してくださいよ」
 そう言って、育井田は俺の手を払って、店の横方にあるスタッフ出入り口に入ってしまった。
 ーーなんてことだよ……。
 あの育井田の様子。
 あれは高校生がする顔じゃない。絶対なにか隠してる顔だ。
 俺は打ちひしがれていた。自分の生徒の窮状に気づいてやれなかったなんて。
 しばらくその場に立ち尽くして、育井田が消えていったキャバクラ店をぼんやりと見ていた。


「……マジかよ」
 店の前で待っていた俺を見つめ、眉をひそめながら育井田が言った。
 今は、Tシャツにジーンズという普段着の育井田に、心底ほっとする。
「あんた、ずっとここにいたわけ」
「話をしないと、と思って」
「もうあれから4時間経ってんのに」
 言われてスマホを見たら、夜の2時を20分過ぎたところだった。
「ぼーっと4時間待ってたわけじゃないよ、ほぼ向かいのマックにいたし」
 育井田が、額に手を当ててはーっと息を吐いた。
「本気か……この担任……」
「腹減ってないか?」
「……夜中は食わないので」
「じゃあ、あったかいお茶でも飲もう」
 そう言って、むりやり育井田の腕を掴んで引っ張る。
「あんたさあ、何でここまでするんだよ……」
 不可解そうに育井田が言った。その声に微かに悲痛な声が混じってるように聞こえて、胸が締めつけられた。
「迷惑?」
 そう尋ねると、育井田がぐっと喉を鳴らす。
「……迷惑、ってわけじゃないですけど……」
 ああやっぱり。育井田の根っこのところは、素直だ。
 困惑しているバイト上がりの育井田の腕を引いて、俺はネオン街を抜けた24時間営業のファミレスを目指した。


「怒らないんですね」
 向かい合いの席に座った育井田に言われて、そういえば注意してなかったな、と思った。
「ダメだぞ?」
「説教テキトーすぎ……」育井田が呆れたようにホットコーヒーを啜る。
「こんな時間にコーヒーなんか飲んだら眠れなくなるよ」
「その、子ども扱いやめてもらっていいですかね」
 そう言って、育井田が撫でつけた髪を撫でる。実際、子ども扱いできるような見てくれじゃない。下手すると俺の方が年下に見えそうなんだから。
「育井田。なにか事情があるんだな? 好きでボーイやってるようには見えないし」
「好きでやってんだけど」
「好きな仕事してる奴はもっと活き活きしてるもんだ。おまえは目が死んでる」
 育井田が、ち、と舌打ちする。「……調子狂うな」
「腫れ引いたね」
 俺がそう言うと、育井田が観念したようにため息した。
「酒で暴れた客を止めようとして、殴られました」
「そんなことだろうと思った」そう言って、俺はチーズケーキを一口食べた。
 育井田が俺の手元を見ながら、思わずという風に口端を上げる。
「……生徒の話聞きながらケーキ、って」
「うまいよ?」
「俺はいりませんよ」
 育井田の雰囲気が少し柔らかくなった気がする。
 俺がもう一度尋ねる前に、育井田が腕組みした。
「……金がないんで、バイトしてるんですよ」予想外に、その形のいい唇からスルッと言葉が出る。
「欲しい物があるとか?」
「ちげーよ。……すっからかんなんです」
「えっ。ま、待て待て……親父さんは?」
「5月から親いねーから」
 一瞬、言葉を失った。
 元々、父子家庭なのは聞いていたけど。
「どっ、どうしたんだ、事故とか?」
「出て行った。消息不明」
「えっ、捜索願いは」
「出してないですよ、そんなもん。貯金もゼロ。金が尽きたから俺を置いて出て行ったんでしょ」
 あんまりのことに呆気にとられて、俺は眉間を揉む育井田を凝視していた。
「そんなの……聞いてないぞ」
「言ってねーもん」
「言えよ!」
「あんたに言ったところで何ができるわけ」
 冷めた目で見られて、ぐっと喉が詰まった。
「……じゃあ、家賃と学費を自分で稼いでるってことなのか」
「とりあえずは家賃払わねーと。安いとこに引っ越ししようにも保証人がいねーし、そもそも引っ越し代もないんで」
 いつの間にそんなに一人で抱え込んで……こいつは本当に。
 気の毒そうな表情をしてしまっていたのかもしれない。育井田は、俺の顔を見てすっと表情を消した。
「18だったら働こうと思えば働ける年だし、大したことじゃないんで」
「あのなあ!」思わず、テーブルの上に投げ出されていた育井田の腕を掴む。「そうやって何でも大したことないって! 大したことだろうが、受験生なんだぞ!」
 育井田が、呆れたように俺を見る。
「……あんた、俺がこの後に及んで大学行く気でいると思ってんの?」
 はた、と思考が止まった。
「高校卒業して就職する。一択なんで」
 ああ、俺は本当に……なんて考えが及ばないんだろう。
 いつも何気ない一言で生徒を傷つけてしまっているんじゃないかと、自分が嫌になった。
「だって育井田……宇宙工学の勉強したいって言ってたじゃないか……」
 育井田が目を丸くする。
「……それ、覚えてんの」
「え」
「あんな一瞬のこと、覚えてたのかよ」
 去年の秋だったと思う。
 校庭のベンチにいた、まだ高2の育井田と、話をする機会があった。
『おーい、そこの生徒ー』
 その頃はまだ、育井田の名前を知らなくて。
『ぼーっと空見てないで、これ運ぶの手伝ってくれー』
 文句も言わずにやってきた育井田は、俺が抱えていた巻いた園芸用の緑のネットを軽々と抱えてくれた。
 廊下で見かけたことがあるくらいの面識で、俺は常々、スラッとしていて目を引くのに表情の少ない生徒だな、と思っていた。
『熱心に見てたな。空』
『ああ……今日は流星群見れるんですよ』
 育井田は、昼でも見られる星の位置や、秋の空が高い理由や、最新の宇宙ロケットのことなんかを教えてくれた。
 俺は心の底から感心して、へーとか、ほーとかばっかり言ってた気がする。
 しばらく時間を忘れて、一緒に空を見上げていた。
『詳しいんだなー。空の向こうに宇宙があるって、当たり前のこと忘れてたよ』
『俺、宇宙工学の勉強、したいんすよ』
 そう言った、あの時の育井田の目は静かに輝いていて。
 この子は本当に空が好きなんだなと、胸が熱くなったものだ。
「覚えてないわけないだろ」
 俺がそう返事すると、育井田は目を伏せて、何か考えているようだった。
 いつものように涼しい顔だったけれど。
 虚ろだった目が、ほんの少し和らいで見えた。





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