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 歩は、動揺していた。 
 先に浴びてください、と言った青野がバスルームを出て行くのを見送ってから、呆然と湯に打たれていた。
 指先がふやけてきた頃にやっと濡れた服をすべて脱ぎ、心あらずのままシャワーを浴びて、脱衣所に用意されていた身の丈に余るシャツと未開封の下着を着た。
 そして、歩がバスルームを出るのと入れ違いに青野が入ってから、だいぶ時間が経つ。
 シャワーの音を遠くに聞きながら、歩は間接照明に照らされたリビングの壁際に立ち尽くしていた。
 広いキッチンもダイニングも、生活の気配を感じない。
 シルバーと黒で調えられた空間は、鉄の執事の無機質さと同じだった。
 青野の体に貼り付いたグロテスクな色彩が、目の前をちらつく。
『私をこんな目に遭わせているのは……歩様。あなたですよ』
 言葉を何度も反芻した。
 歩に身に覚えはない。それが恐ろしかった。
 真意を聞きたい。はやく。
「透真さん……」
 ――はやく。はやく出てきて。
 シャワーの音が止まって、歩の体が緊張で強張る。
 しばらくして、リビングのドアが開いた。
 素肌に麻のシャツを羽織った黒のルームパンツ姿の青野が入ってくる。開いたシャツの合間にのぞくたくましい胸や腹に広がっている痕は、生々しく熱を持っているように見える。
 そのすべてに責められているようで、歩は心が重苦しかった。
 青野はリビングの壁際で立ち尽くしている歩を眼鏡越しに一瞥すると、タオルで髪を拭いながらオープンキッチンに向かった。冷蔵庫から500mlのミネラルウォーターを取り出し、グラスをひとつ用意して注ぐ。
「――召し上がりますか」
 青野は、返答できない歩に構わず、水を注いだグラスを手に歩いてくる。
 歩は、差し出されるグラスを少しの間見つめて、おずおずと受け取った。グラスに口をつけるものの、傾けて飲むことを忘れたように床に視線を落とす。
 カウンターへ戻った青野が、ダウンライトの下で直接ペットボトルをあおっている。
 歩は、音をたてる男の喉に浮いた縄の痕を気もそぞろに見た。
 青野が口を拭いながら歩を振り返る。カウンターに肘をつくと、腹筋がぐっと引き締まり影を作った。
「なぜ、まだここにいるんです」
 歩は、青野に唐突に投げられた言葉に不意をつかれて顔を上げた。
 青野が憮然として歩を眺めている。
「もしや何も考えていないのですか。あなたを殺したいほど憎んでいる男の部屋にいるんですよ」
(たしかに、そうだけど)
 歩は、逃げるという発想が湧かなかった。
 青野が、珍しく思案の色を浮かべて歩を見ている。
『私をこんな目に遭わせているのは……歩様。あなたですよ』
 そう、青野が言った意味。
 訊くのが怖い。でも、訊かなきゃいけない。
 そのために、ここで待っていたのだから。
「……俺のせい、って……」たまらなく唇が震える。「どうして俺が、透真さんをひどい目に遭わせてるの」
 青野は一瞬目を眇めると、ゆっくりと歩み寄ってきた。
 さすがに恐怖を感じて、歩が全身を緊張させる。
 歩の目の前に立った青野が、冷えた目でたっぷりと見下ろしてくる。
「初めてあなたに会った時、私はこう思った――このお坊ちゃんは、何も知らない顔をして私がこの体で稼いだ金で高級料理を食べ、高級ブランドを着て暮らしているんだ、と」
 歩は、その通りだろうな、と思った。何も言えなかった。
「そんなお坊ちゃまが、どうやら皮肉にも私に惚れているらしいとわかった時は……悪い冗談だと思いましたよ」
 自嘲気味な声に、歩は唇を噛んだ。
 急に、青野に引き寄せられて息を呑む。
 裸の胸に額がぶつかると、目の前には歩を断罪する紫があった。
 歩の耳元に唇を埋めるようにして青野が囁く。
「本当に嫌なら、私はすべてを捨ててあの邸から逃げ出すことだってできる……そう思いませんか」
 歩が恐る恐る見上げると、昏く、刺すような青野の眼差しが降ってきた。
「私がお邸から出ていかなかったのは、あなたがいたからです」
「え……」
「いつかこの跡取りのお坊ちゃんを、あの悪魔の前でひどく殺してやろうと。そう思って耐えて来ました」
 歩は、目を見開いた。
 思考が止まって、動けない。
 凍てついた青野から、殺意が迸っている。
 怖ろしいほど優しく頬に触れられて、歩の喉がごくりと鳴る。
「その時のことを考えるだけで、とても興奮する……あなたの無残な死が、私の鬱積を晴らしてくれるでしょうから」
 腹の底まで凍らせる声に、歩の呼吸がひりついた。
 怒りと蔑みの混じった冷え切った眼差し。
 歩は、何も言えないまま青野の視線を受け止めていた。
 忌々しげに、青野が目の端を歪める。




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