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「私を憐れんでいるのですか」
 苛立ちを含んだ青野の言葉に、歩が眉を寄せた。「違う、そんな――」
「いいご身分だ。そうやって、他人を憐れむ余裕があるのですから」
 暗い感情をぶつけられても、歩は何も思わなかった。
 ただ、能天気に青野に懸想していた今までの自分を恥ずかしく感じていた。
「……ごめんなさい」歩は息を詰めて、目の前の男の足元に視線を彷徨わせた。「俺にできることがあれば何でもします」
「お父様の代わりに、ですか」
 歩は、はっとして、青野を見上げた。
「あなたは私の気が済むように、なんでもするつもりがあると仰っているんですよね」
 青野の昏い念押しに、歩は目をみはった。
 執事に憎まれていることは肌で感じて、わかっていたことだ。
 彼の憎しみの理由を知りたかったから、歩はここまでついて来た。
 現実は想像以上に悲惨だった。
 寄り添ったり、理解すればいいようなものではなかった。
 青野の鉄の表情は、誰にも心に立ち入らせない決然とした意志の顕れで、彼が自身の屈辱を濯ぐために望んでいるものは、歩の無残な死だ。
 青野の受けた屈辱は、歩にはどうしようもないものだとわかった。
(――だから、透真さんの気が済むようにしてほしい)
 歩は、そう思った。
「そっか……そうだったんだ……」
 自分の気持ちはそうなんだと、今、はっきりとわかった。
 歩の表情から、生気が消える。
 青野は、歩の様子に不審げに目を細めた。細い顎を指先で捕らえて、上向かせる。
 曖昧に揺れる歩の目が、頼りなく焦点を結んだ。
「透真さんに、ひどいことをさせてる父のことは、許せないけど――」
 また、歩の視線がぼんやりと定まらなくなっていく。それは急速に、自分の意志を体から離していくようだった。
 青野がまた、歩の状態の不安定さに怪訝そうに眉を寄せる。
「父は……唯一の家族で、俺はきっと憎みきれないから。だから、透真さんにどうしたいか決めてもらうしかないんです」
 そう言った歩は、今度こそすっかり体から意志を離した。
 無防備だ。
 青野の目にも、歩のその様子はありありと見てとれた。
 青野が忌々しげに舌打ちする。顎を持った手の親指を、歩の唇を押し分けて口内に侵入させた。
「……っ」歩の息が震える。
 舌に、青野の親指の先が立てられて歩を苛んだ。
 青野は日々、歩が感じていた殺気の通り、歩を殺すことだけを心の支えに葛城家に仕えていたのだ。
 積年の鬱憤をこの身にぶつけられたら、どうなるだろう――目の前の男の殺気にあてられて、歩の膝にさすがに震えがくる。
 青野が、歩の耳元に唇を寄せた。
「あなたを調教して淫乱にして……毎日犯して愉しむのもいい。奴らの悪癖が足元にも及ばない趣味に変えてさしあげましょうか」
 歩は、じんっと自分の腹の奥が疼いて慄然とした。無意識に震えた舌が、口に含まされた青野の親指を押し返す。
「おや……満更でもないらしい」青野が目を細めた。
「そうでしたね、あなたは私のことが好きなんだ……ご褒美になってしまうかな」
 青野が、舌先を歩の頬から耳まで神経質に這わせた。
「私に、どんな風に殺されたいですか」
 歩は理解した。謝罪も何も、必要ない。
(この人に必要なのは、復讐だけだ――)
 歩の手から滑り落ちた繊細なグラスが床で派手な音をたてる。飛び散った破片を横目に、歩は息を詰めた。
 青野が屈んで、大きめの破片を手にする。
 歩は、自分の呼吸が浅く速くなるのを感じた。
「ああ……イギリスで手に入れた良いグラスなのに」
 青野はわざとらしく残念そうに呟いて、歩の力の入らない手をとった。
「……握って」破片を、歩の手のひらに乗せる。
 歩の肩が、震えた。
「握りなさい」
 有無を言わさぬ言葉に、歩が恐る恐る破片を握る。
 その上から、青野が手を重ねた。
 ――このまま、力を入れて握られたら。
 自分の手のひらに破片が食い込んでいく恐ろしい想像が込み上げて、歩は固く目をつむった。
 わずかに、青野の手に力がこもる。
 歩は、まもなくやって来るだろう痛みに備えて奥歯を噛み締めた。
 長い時間に感じた。
 そのまま力は強まることなく、青野の手が離れる。
 支えを失った歩の手がだらりと投げ出された拍子に、破片が床へ落ちた。
「はっ……はぁ……」
 歩は、血の気が一度に失せて膝の力が抜けた。自分を殺したいほど憎んでいる男の胸に縋る。
「簡単なテストですよ。あなたが抵抗する気があるのかを見たかったのですが」無機質な声が歩の髪を撫でる。「抵抗も逃げもしないんですね。おかしな人だ……」
 歩は、ずっと切れない緊張の糸を早く切ってほしくて、たまらずに唇を震わせた。
「好きにしろって、言ってる……っ」
 生殺しのような時間をはやく終わらせてほしい。
 足は竦んで、立っているのがやっとだ。自分の頬に涙がこぼれたように感じたけれど、よくわからなかった。
 もう日常は返ってこない。目を背けたい現実しか残っていない。
 抵抗もせず、このまま青野の手の中でおとなしくなぶられるのが一番苦しみが少ないだろうか。
 歩は頼りない手で青野のシャツの腰を掴んだ。逞しい胸に力の入らない体をもたせる。
「も……ぅ、はやく……」
「……荒ぶる神に身を捧げる処女の風情ですね」
 嘲るように言った青野が、力ない歩の顎をとらえて上向かせた。
 歩が見上げると、青野が形の良い唇を開く。
 無意識に、歩の唇の形が青野の唇の動きを追った。
 その隙間に喰らいつかれる。
「んっ、んんっ……!」
 震える歩の舌に、青野の舌が強く絡みついた。
 苦しくて、青野の胸を押す。鼻で息をすることを思い出して、歩は青野の荒々しい口づけを受け入れた。
「本当に、私に何をされてもイイらしい――」唇と舌をなぶったまま、青野が歩の喉に言葉を注ぎ込む。
「穢らわしくて、いやらしい人だ。あなたは」
 歩の頭の中に、青野の低い声が響いた。
 雨の中でした口づけよりも激しく、歩は青野の憎悪に貪られた。




 つづく

 19/05/20
 改稿 21/08/20




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