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 着衣のままの二人に、勢いよく湯が降り注ぐ。
「ぬ、濡れちゃうよ……」
「ここまで濡れていたら同じでしょう」
 シャワーと一緒に注がれる男の声で、歩は黙った。
 心臓が強く速く打つ。青野に伝わってしまっている気がして、恥ずかしい。
 歩はふと、シャツ越しに伝わってくる男の肌の温度に気づいた。
「透真さん、冷たい――」
「あんな雨に打たれれば、こうもなります」
 冷静に言った青野は、体を離すと今度こそためらいなく歩のシャツに手を伸ばす。
 歩は、ボタンを手際よく外していく執事の指をぼんやりと見ていた。
 青野の部屋のバスルームでシャツを脱がされているこの状況が、現実に思えない。
 徐々に体の芯に熱が入ってくる。
 歩が大きく肩で息をしたのと、シャツのボタンが全て外されたのはほぼ同時だった。
「脱げますか」
 促されて、歩が濡れたシャツの袖から腕を抜こうとする。
 青野は、その悪戦苦闘をしばらく見下ろすとおもむろに歩のシャツの襟ぐりに指をかけた。濡れた生地と、肌の狭間に指を這わせるようにして脱衣を手伝う。
「……っ」
 肌に触れるか触れないかで滑っていく青野の指に、歩の背中が震える。
 どんな顔をして脱がされていればいいのかわからなくて、遠慮がちに目の前の男を見上げる。
 青野の後ろに撫でつけられていた髪はすっかり降りて、毛先から雫を滴らせている。眼鏡越しでない端正な容貌が、普段より若く見えた。いつも眼鏡の奥で冷たく張り詰めた光を湛えている目元は、シャワーの湯気の中で幾分柔らかい。
 上質なシャツがその肌に張りつき、青野の身体の線がはっきりとわかる。シャツを押し上げるように張り出した胸筋に、ふつりと主張する乳首の形が見てとれて、歩は恥ずかしくなった。
 青野は、歩の脱がせたシャツを手早く叩いて絞ると、脱衣所のボックスへ放った。濡れそぼったインナーもまくりあげて脱がせると、歩の背中にもう一度腕を回す。
 あの雨の中での暴力的な気配は、今の青野にはない。
 歩は、緊張しながらも広い胸に頭を預けた。規則正しく力強い鼓動が伝わってくる。
 きもちいい――。
 徐々に緊張は抜け、シャワーの温かさと一緒に体が溶けてしまいそうになった。
「――温まってきたようですね」
 すっかり身を任せていた歩は、青野の一言で現実に引き戻された。スラックスに伸びた青野の手を慌てて止める。
「下は自分で、脱ぐから――」
「かしこまりました。では、先に浴びてください」
 シャワーを譲った青野が脱衣所に上がる。
 歩は抱擁の名残りを惜しみながら、青野に目をやった。
(え……?)
 濡れた服を脱ぐ男の姿に、違和感を覚えて目をこらす。
 照度の低い浴室灯に照らされた裸の背中に、紫陽花色が無数に散らばって見える。
 歩はしばらく、その色が何なのかわからないままでいた。
 その色とりどりが無数の内出血だとわかった途端、無意識にぶるっと震えた。よく見れば、鍛えられた腕や肩にまで広がっている色彩に混じって、引っかき傷や、縛られたような痕まである。
 それはひたすらに異様で、歩は自分が見ているものを信じられないまま、男の背中を見て凍りついていた。
 振り向いた青野が、愕然としている歩の視線に目を眇める。「なにか」
 歩の息が震えた。なんて、声をかければいいのだろう。
「……どうしたの、体……」
 歩がやっと口にできたのは、はっきりしない問いだった。
「ああ」なんでもないことのように青野が自分の肩を撫でる。「仕事で少々無理をしました」
 ――仕事?
 歩が、ぎゅっと眉根を寄せる。
 一体、どんな仕事で何をしたらそんな風になるのか。
「痛くないの……?」
 青野は洗面台で絞ったシャツを脱衣ボックスへ放ると、微かに哂った。
「私の嗜好の産物とは思いませんか」
「え……?」
「ああ、失礼。あなたにはまだわからない概念のようだ」そう言って、青野がベルトを外す。「蛇の巣では、すべてが蛇に見えるものですから」
 不可解な表情で立ち尽くす歩に向き直って、青野が目を細める。
「気になりますか」
「あ……うん」
「お近くでご覧になりますか」
「え」
 青野が浴室に踏み入った。
 歩は嫌な予感がした。青野の全身に、青白い炎が宿って見える。
 大股であっという間に距離を詰められて、タイル壁際に追い詰められた歩は、眼鏡越しではない視線の冷ややかさに息を詰めた。
「これで、よく見えますか」そう言った青野が、歩の手をとる。躊躇している歩の指先を、胸元に浮いた色に触れさせながら言う。「この痕……何だと思われますか」
 歩は心臓が速く鳴るのを感じながら反応できずにいた。どう返事をするのが正解なのかわからない。間近で見ると、肌に貼り付いた色彩はどれも赤黒や青黒く、あきらかに打撲の痕だった。
 歩の目が、青野の肌を幾筋も湯が走っていくのを追う。張り詰めた胸や均整に割れた腹にも、鬱血や引っかき傷が散らばっているのが見えた。
 青野の肌の上をぎこちなく泳いでいた歩の視線が、不意に怯えたように揺れる。
 普段はネクタイで隠れている青野の首に、縄で締められた痕が薄っすらと浮かんでいた。
 歩の背中に、冷たい汗が噴き出す。
 青野は歩の視線に気づいたのか、自分の首を手でひと撫ですると鼻で哂(わら)った。
「悦いらしいんですよ。セックスの時に締めると」
 あっさり吐き出された言葉に、歩が目を見開く。
「ちょっと……待って、どういうことですか」
 見下ろしてくる青野の眼差しに、危うい光が宿る。
 歩は、警告音が頭の中で鳴り始めるのを感じた。「仕事って……言ってましたよね」
「ええ」
「でも、今……せ……っくす、って」
「だから、それが仕事なのです」
 わからない。
 歩は混乱した。
 青野は、激務の執事以外にもそういった――風俗のような仕事をする必要があるのだろうか。
 歩は、立ち入った話をしていいのかわからず言葉に迷っていた。青野の体に浮いている暴力的な痕を改めて見る。
 ――これは、あまりにも。
「……ひどい怪我に見えるけど、病院には行ったの」
「性病の検査で参りました」
 青野の口から平然と滑り出たセリフに、一瞬言葉を失う。
「そう、じゃなくて……いや、それもそうなんだけど、手当てとか」
「骨に異常はなさそうでしたので、特には」
 なぜそんなに平静でいられるのか。歩は怒りに似た感情を感じた。
「なにがあったの?」
「複数人に好きに扱われただけです」
 歩は、気が遠くなった。「け、警察には? 犯人を捕まえなきゃ――」
「必要ありません」
「なんで……だって、こんなの暴力でしょ、犯罪だよ」
「金はもらっています。言ったでしょう、仕事だと」
 歩の理解が追いつかない。「よくわからない……どういうことなんですか……」
 ふと、歩はシャワーの音に混じってジッパーの金具が擦れる音が聞こえた。反射的に音の方へ視線を落とす。
 歩は、青野が自分のスラックスの前をくつろげようとしているのが見えて、息を呑んだ。
「これをご覧になれば、すべておわかりいただけますよ」




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