[]






 傘を叩く雨は、やみそうもない。
 言葉はなく、視界はまとまりがない。
 抱かれる肩に伝わってくる体温で、これは現実なんだと思わされる。
 数時間後には、殺されているかも――。
 歩は、冷たい熱に浮かされた意識の隅でそう思っていた。





極上執事の毒


04 深層




 いくらも歩かずに着いたのは、高級マンションだ。闇と雨に煙って外観はよく見えない。
 歩は扉の前に立ち、傘を閉じる執事の姿を見ていた。
 部屋に入ってしまえば、二人はもう誰の目にも触れない。青野に何をされても、自分がどうなっても誰にもわからない。
 今なら逃げられる。雨の中へ走り戻ればいい。
 なのになんで足が動かないんだろう――。
 歩はぼんやりと思いながら、すっかり色が変わった青野のスーツの背中を見ていた。
 青野が上着の内ポケットから取り出した鍵をインターホン横に差し込むと、ガラスを震わせて扉が開いた。
 緊張で、歩の喉が鳴る。
 青野が、歩に手を差し出す。
「お預かりします」
 歩は、傘を渡す手を躊躇した。こうしてひとつひとつ、逃げ場を失っていく気がする。
 青野がダウンライトの下で歩を見ている。冷ややかな眼鏡の影が頬に落ちていて表情はわからない。
 その無言の気配に圧されて、歩は傘を渡した。
 青野と共にエントランスに入ると、自動扉が閉まって雨音が一気に遠のく。
「来てください」
 ゾッとするほど落ち着いた声に、歩の体に痺れが走った。
 歩は青野を、機械のようだと感じることがある。
 鋼の如く冷えきった無表情と、主の要求に完璧に応える姿には人間味がない。
 だからこそ、激情を凍てつかせた目で見られるといつも、歩は言い知れない気持ちになる。この美しい男が自分の前でほんの一瞬だけ命を持ったかのように感じる。青野の猛った生気の生々しさは、歩に息が震えるほどの快楽を起こすのだ。
 ――もっと欲しい。彼が吐き出す強い感情を浴びるように感じたい。
 その瞬間だけ、自分が青野の特別になれる気がするから。
『――穢らわしい』
 不意に、雨中で叩きつけられた青野の言葉を思い出した。
(そうだった……あの時、俺、拒絶されたんだった)
 芽生えたばかりの快楽が、急速にしぼんでいく。
 青野が呼んだエレベータに、歩は体を小さくして乗り込んだ。後から乗ってくる青野を直視できずに、その指先が階数パネルに触れるのを目の端で見た。
(きれいな手だな……)
 自分の命が危ういやもというのに、歩は青野の挙動をどこか他人事のように眺めていた。
 傘の先が床に水滴を垂らしている。静まり返るエレベーターの中で奥歯が音を立て始めた。濡れた身体が、芯まで冷え切っていた。


 7階。
 歩は、執事の背中に続いてエレベーターを降りた。
 高級ホテルのような廊下。ダウンライトを艷やかに反射するタイル床に、二人分の濡れた靴音が響く。
 青野が、『702』と書かれているドアの前で止まる。取っ手に軽く触れると短く解錠音が鳴った。慣れた動作でドアが開かれ、仄暗い空間が歩の目の前に広がる。
(入ったら、俺、どうなるんだろう)
 急に現実が襲ってきて、歩は身震いが起きた。
 足が動かない。
 黙って待つ青野の気配は、歩に自分の足で処刑場に入れと言っている。
 頭では、逃げないと、と思ったはずなのに、歩の体は玄関に入っていた。
 足元灯が濡れそぼったローファを照らす。香った几帳面なフレグランスに胸を掻き乱された。青野の香りだ。
 背中に、青野の気配を感じる。
 ドアが閉まる音で、ふたりきりになった。歩を憎んでいるのだろう男の部屋で。
「上がってください」
 無感情な言葉が、歩の肩に落ちてくる。
 歩は、ぎゅっと目を閉じて呼吸をすると覚悟を決めて靴を脱いだ。濡れたソックスの感触を不快に感じる。
「左手のバスルームへ」
 執事の声に誘導されて、廊下の途中の引き戸を恐る恐る開く。
 感知式ライトが灯り、脱衣所のガラス戸越しに黒いタイルの洗い場と白いバスタブが浮かび上がった。
 清潔なバスルームには、生活の気配がない。
 考えてみれば、葛城邸の敷地内の離れに使用人用の仮眠室がある。シャワールーム付きなので、残業や朝帰り、早朝の勤務も多い青野はほとんどの身支度をそこで済ませているのかもしれない。
 考えを巡らせている歩の横を、青野が何食わぬ顔で通り過ぎる。浴室へ入ってシャワー栓をひねるとすぐに湯煙が上がった。
 青野は濡れたジャケットを脱ぎネクタイを外しながら脱衣所に戻ってくると、立ち尽くす歩を一瞥する。
「お召し物を脱いでください。風邪をひきます」
 歩は、青野が外した眼鏡を鏡台に置くのを見ながら自分のネクタイに手をかけた。何年ぶりに見ただろうか、という裸の切れ長な目元に、胸がざわつく。
「制服をお預かりします」
 歩は、差し出したブレザーとネクタイが青野の手で手際よくハンガーにかけられていく様子を見ていた。
 振り返った青野に更に視線で促されて、歩が困惑気味に眉を寄せる。
「制服のスラックスと、シャツもです」
「えっ」
「泥を落として洗濯をしませんと」
「ぬ、脱ぐの」
「ええ」
 当然のように返事した青野に、歩が唇を引き結ぶ。
 初めて訪れた執事の部屋で、服を脱ぐことになるなんて。
(意識するな、意識するな……)
 歩は言い聞かせながら自分のシャツの合わせを持った。指先が震えて、ボタンがつまめない。服を脱ぐことが、こんなに心細く感じることがあっただろうか。
「致しましょうか」声をかけた青野が、躊躇いなく歩のシャツに指をかける。
「あ……! じ、自分でするから」声が裏返って、歩は唇を噛んだ。
 青野は指先をもたもたと動かす歩をしばらく見つめて、口を開いた。
「冷え切っていらっしゃる」
 そう言って、やっとシャツのボタンを2つ外しただけの歩を浴室内に促す。
 湯を吐き出すシャワーの前まで連れられて、歩は息を呑んだ。
 あまりにも自然に、青野の腕に抱き寄せられたからだ。




[]







- ナノ -