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 ◇


 良いことが続いた後は、悪いことが起こる。
 そんな、どこで聞いたかも覚えていないようなジンクスに本気で怯えてしまうほど、俺の受験の夏は兄さんとの時間で満たされていた。
 ほぼ毎日、兄さんは9時前に家に戻ってきて、夕食と入浴を終えると勉強をみてくれる。
 質問がない日もある。そんな時は、兄さんは本を片手に、俺は参考書を広げて、ただ同じ空間で過ごす。
 ずっと続きはしないとわかっている大切な時間ほど、早く過ぎていくんだ。


「最近、顔色いいな」講義の合間、休憩所で久留米がコーヒー牛乳のパックを吸いながら言った。「なんかいいことあっただろ」
「んー……最近、兄さんとうまくいってるからかな」
「そんなことでそんだけ元気になれんのか」
 久留米にからかわれても、少しも気にならない。
 今日も、家に帰れば兄さんに会えるーーそう思うと、そわそわしてしまう。
「おまえのとこ……西村って海外事業も始めんの」
 ふいに言われて、一瞬、間があいた。
「え」
「聞いてねえの? 俺の家にあった経済誌、たまたま見てたらおまえの親父載ってたぞ……ええと……西村鉄郎、だっけ?」
「あ、うん。父さんだ」
「まずは中国の上海に店舗出すってよ」
「上海ーー」
 はじめて聞いた。本当かな――。
 景気がいいな、と言いながらコーヒー牛乳を啜る久留米を、俺は穴が開くほど見つめていた。


「海外進出か……」
 夕暮れの中、家路を考え事に耽りながら歩く。
 父さんはどうするつもりで、どれくらい暮らしが変わるんだろう。
 兄さんは?
 そして、俺は?
 疑問が次々に湧いてくる。
「あれ……?」
 自宅前に車が止まっていて、スーツ姿の人が一人、荷物を持って入って行った。
 その人影を追って玄関を覗くと、さっきのスーツ姿の人がちょうど出てきて、ぶつかりそうになる。
「失礼いたしました」
 父さんの秘書の前田さんだ。
 黒い眼鏡のフレームがよく似合う、真面目を絵に描いたような人だ。
「晴哉さん、ご無沙汰しております」
「父さん帰ってるんですか」
「今、お戻りになったところです。少々、お体の調子が優れなくて」
「え」どく、と心臓がひとつ跳ねる。
「ご心配には及びません、過労です。かかりつけの点滴で落ち着かれましたから」
「そうですか……」
「明朝にはまた大阪の方へ行かれるご予定ですので、お迎えに上がります」
「あの……そんなスケジュール、大丈夫なんですか……?」
「お父様のご意向でして。明日のご様子次第ではありますが」そう言って、前田さんが一礼して出て行く。
 そのキビキビした背広の背中が車に入るのを見送ってから、俺は家に上がった。
「晴哉さん。お帰りになったのですか」お手伝いのサチさんが、エプロンを外しながら廊下を歩いてくる。
「サチさんは、もうすぐ帰る時間だよね」
「18時まで、お父様のご様子を見てからおいとまいたします。お夕食できてますよ」
「……やっぱり具合悪いの?」
「帰られてからは特に変わったご様子はありませんよ。ご心配いりません」
 そう言って微笑むサチさんのゆったりした話し方は、俺を安心させてくれた。
「会える?」
「ええ。書斎にいらっしゃいます」
 部屋にカバンを置いて、普段は行かない反対側の棟の廊下の奥に向かった。
 微かに葉巻が香って、父さんがいるんだという実感が湧く。
 廊下の突き当りの深い木色の扉をノックする。俺の指の方が鳴っているんじゃないかというくらい重厚な扉だ。
「入りなさい」
 部屋の中から父さんの低い声がして、ゆっくりとノブを回して開ける。
 父さんは、今日は珍しく青いスーツを着て煙をくゆらせていた。
「おかえりなさい……体調崩したって聞いて」
「大丈夫だ。連日会食で酒を飲みすぎた」
 そう言って窓の外を見ながら葉巻をふかしている父さんは、いつも通りに威厳がある。でも、少し痩せたような気もした。
 ききたいことがたくさんあったけど、俺が言い出す前に父さんが言った。
「受験勉強は進んでいるか」
「はい。この間の模試も、やっとC判定が出て……兄さんも教えてくれていますし」
「そうか」そう言って、父さんが葉巻を灰皿に押し付けて消す。「食事は部屋でとるとサチに伝えてくれ」
「わかりました」俺はそう言って、扉を閉めようとした。
「晴哉」
 呼び止められて、顔を上げる。
「白習院を受けたいそうだな」
 どき、と心臓が鳴った。「は、はい」
「学費は出す。必ず受かりなさい」
「……はい」
 重い重い言葉が胸に落ちた。けど、安心もした。
 父さんはいろいろ考えのある人だから、反対されたらどうしようかと思っていた。
 書斎を出たところで、あ、と思わず声を出した。
(……海外進出のことききそびれた……)
 もやもやしたまま部屋に戻る。
 胸がざわついて、落ち着かない。
 なにかが変わってしまいそうな、そんな予感がした。




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