◇
21時を過ぎた頃だ。
手洗いに行くために部屋から廊下に出た時、丁度帰ってきた兄さんの足音が父さんの書斎に向かうのを聞いた。
章宏兄さんから「夕飯は食べて帰る」と連絡をもらっていた俺は、夕食は先に済ませていた。
部屋に戻って、ドアの隙間から階下の気配を窺いながら、10分、20分……と時計の針が動くのを見ていた。
(……珍しく話し込んでるなあ)
30分を回った頃、ようやく階下にスリッパの音が響いた。兄さんの足音だ。
慌ててドアを閉めて、机に戻る。
これから着替えてお風呂に入って、そう経たない内に部屋に来るだろうな――考えながら参考書に目を落とした。
……それから、ドアは沈黙したままだ。
時間も、もう23時になろうとしてる。
(今日は来ないのかな――)
立ち上がってドアに近づくと、浴衣姿の兄さんが入ってきたのとぶつかりそうになった。
「わっ」
「ああ……悪い。遅くなった、まだ勉強やってるのか」
兄さん、なんだか心ここにあらずって感じだ。
「父さん、なんの話だったの?」
「別に、大したことじゃない」
兄さんはそう言って、いつものように文庫本を手に俺のベッドの前に立つ。
でも、どこか様子がおかしい。表情が強張っているというか。
「……兄さん?」
兄さんが、肩越しに俺を見る。
「顔色がよくない気が――父さん、なんて言ってたの」
「店の話だ」
そしてまた、兄さんが黙った。
……やっぱり様子がおかしい。
兄さんがベッドの縁に座る。額に片手をやって、項垂れた。
だらりと下がった手の中で、文庫本の栞の紐が頼りなく揺れている。
「兄さん……?」
ふう、と兄さんがため息をする。「晴哉」
「なに?」歩み寄ると、腕をとられて引き寄せられた。「わ……っ」
よろけた俺を受け止めた兄さんの、強い腕に抱きすくめられる。
ぎゅ、と浴衣の生地が音をたてるほど。
「っ……、にいさ……ど、したの……?」
答えが返ってこない。
兄さんの胸の鼓動が体に響いてきて、肩に、兄さんの呼吸を感じる。
ドキドキ走る心臓がうるさかった。
けど、あきらかにいつもと違う兄さんの様子に、段々と心配の方が大きくなる。
なんだか兄さんが、幼い子どもになってしまったような……そんな感じで。
兄さんの背中に手を回して、なだめるようにさすった。
「……大丈夫? なにか俺に、できること――」
「……晴哉」
「う、ん」
「少しだけ、このままで」
ぽつりと言った声が、いつになく弱々しかった。
俺は、広い背中に手を回して、兄さんがしたいように抱きしめられていた。
つづく
2018/09/27