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 ◇


「はー……」
 ……兄さんに勉強を見てもらうのは、危険かもしれない。
 浴衣姿の兄さんが夜に自分の部屋にいるなんて、刺激が強すぎた。
(なんであんなに色気があるんだろう。前から、あんな感じだったかな……)
 特に最近は、すっかり大人の男って感じで、顔を合わせる度にどうしても動揺してしまう。
 それに、高校受験のときと違って、俺は自分の気持ちを自覚しているし。必要以上に意識してしまっているのかも。
 不毛な片想いはやめようと決めているのに、ちっとも諦められていない……どころか、前にも増して気持ちが強くなっているんじゃないかってことまで、ありありとわかってしまった。
「今後の人生を決める大事な時期だ! 後悔のないように自分の将来をよく考えろよ!」
 広い講義室の黒板の前で講師が檄を飛ばしてる。
「後悔の……ないように……」
 その時は一番の選択をしたつもりでも、きっと後になって悔やむんだろう。
 選ばなかった道を辿るわけにもいかないし。
 ――たとえば、松崎旅館での夜のことだ。
 あの日、俺が素直になっていたら、今頃どうなっていただろう。
 たとえば、着物の着付け部屋での夜。
 万が一にでも、兄さんが俺を受け入れてくれていたなら。
 今頃、俺は、章宏兄さんとどうなっていたんだろう。
 ……そんなことを考える自分に、ぞっとする。
 ああ、頭が重い。




『予備校が終わったら店に来られるか?』
 兄さんから、そんなメールが来たのは、夕方5時頃だった。
 予備校を出て久留米と別れた後、俺は同じ電車でさらに2駅乗って、銀座で降りた。
 すれ違う人は、平日の夜ということもあってか遊びに出てきたというよりも働き盛りの男女のきびきびとした足並みだ。
 夜の銀座のメインの通りを何本か横切って、数分も歩くと閑静な通りに入る。
 呉服屋、というにはモダンな照明に照らされた外観に少しためらってから、思い切って自動ドアの前に立った。
「いらっしゃいませ」
 ドアがひらくと、着物姿の女性の店員さんの声と、い草と香の香りが出迎えてくれた。
 平日の閉店間際なのに、店内にはまだ若い女性と、初老の男性のお客さんが2,3人いる。
(場違いにもほどがあるな……)
 デニム姿の自分を見下ろして思った。
 お店に来るのは初めてじゃないけれど、内装リフォームをしたからだいぶ雰囲気が変わっていて居所がない。
 店内をきょろきょろ見回していたら、女性の店員さんがそっと声をかけてくれた。
「お着物お探しですか?」
 初めて見る人だ。黒髪を綺麗におだんごにまとめて、清潔感がある。
「あ……と、章宏さん、は……」
 慣れない呼び方がむずがゆい。
 女性の店員さんは、少し戸惑ったように店内を見渡した。
「若旦那ですね、ただいまお客様と話し中でして……」
 丁度、店の奥から、反物を手にした青の着物姿の兄さんが暖簾を掻き分けて出てきた。ちら、と俺を見て、小さく目配せしてくれる。
「あ、じゃあここで待ってます」
「かしこまりました」
 そう言って離れていく女性の店員さんの向こうで、兄さんが女性客相手に反物を広げてみせている。
「吉川さんの新作です。友禅特有の柄に、変わった色が使われていて――」
 着物を着慣れてる様子の女性客を畳の座布団へ促して、反物を差し出している。
 店で見る兄さんは、すっかり大人だ。お客さんに品物を説明する姿なんか、すごく落ち着いて見える。
 俺は、所在なくガラスケースに並んだ和装の小物を眺めた。いろんな種類の髪留めや扇子がある。夏らしい透けるようなデザインのものや、青を基調に結われた腰紐や……どれも涼しげな凛とした雰囲気だ。
(兄さんっぽい雰囲気だな……)
 ガラスケースに没頭してしばらく経った頃、「それじゃあお願いしますね」という女性客の声で顔を上げる。
 気がつくと兄さんは、女性客を出口まで送り出すところだった。
 いつのまにか男性客もいなくなってる。
 今、何時だろう――スマホを取り出して見ると、閉店の19時を少し過ぎたところだった。
「閉めましょうか」
 兄さんの一声で、はい、と返事した女性店員さん2人が、てきぱきと反物をしまい始める。
「晴哉」
 暖簾の向こうから兄さんの声に呼ばれて、振り向いた。
 店内で作業していた店員さんの2人が、ぱっと顔を上げて俺を見た。
「あ……弟さんでしたか!」
 苦笑いで返すと、兄さんがすい、と暖簾を手の甲で掻き分けた。
「おいで」
 言われて、兄さんが持ち上げた暖簾をくぐる。
 着物の生地の香り……お香や木の香りがして、深呼吸をした。
 慣れた足取りで奥へ行った兄さんが、すぐに反物を持って戻って、俺にあててみせる。
「男っぽい紺にしてみるか、似合う淡緑にしてみるか」
 言いながら、兄さんが俺と反物を見る。「明るいグレーもいいな……どれがいい」
「え、あー……?」
 何の話かよくわからなかったけど、俺は、グレーの地に若葉色の糸が織り込まれてる生地がきれいだなと思った。
「これ、いい色だね」
「いい目してるな。この中で一番いい反物だ、柔らかい雰囲気に合ってる」
 ふと、兄さんがメジャーを手に持っているのに気がついた。
「あ……俺のなの!?」
「他に誰がいるんだよ」兄さんがやれやれと言った顔をする。
「で、でも俺、こんな高そうな生地――」
「弟から金とったりしねえよ。仕入れた反物を試しに着せてみるんだ。実験台ってこと」
「実験されるの、俺……」
「まあな」兄さんが口端を上げる。
 後ろ向いて、と呟いた兄さんの誘導に、自然と体が従った。
「動くなよ」そう言って、兄さんがテキパキと俺の体を測りはじめる。
 背中。腕。腰回りに手を回されると、ドキリとした。
「……細っ」
「うるさいなあ……」ドキドキするのを誤魔化したくて、憎まれ口をきく。
 メジャーを巻き取りながら、兄さんが言う。「盆までには仕上がる。着付けたら、息抜きに盆踊り行ってみるか」
 驚いて振り向くと、兄さんがつられて驚いたように目を見開いた。「……なんだよ」
「一緒に?」
「嫌か」
「嫌なわけない!」
 即答して、また、しまった、と思う。
 兄さんは困ったように薄く唇を微笑ませると、俺の頭をひとつ撫でた。





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