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  ◇


「どこでやるんだ」
「あ、えーと……どこでも」
「教材持って出るの面倒だろ。おまえの部屋に行くわ」
 サチさんが用意していってくれた生姜焼きを食べながら、兄さんと今夜の話をする。
 今夜も父さんは帰って来ないから、兄さんはラフな格好……のはずなんだけど、珍しく浴衣を着ている。黒に無柄の白帯が男っぽくて近寄りがたい。石鹸の香りも……いい匂いでなんともいえない気持ちになる。
「俺が浴衣着てるのなんて、珍しくないだろ」
 俺の視線がすぐにバレて、ごはんが喉に詰まった。「……家で着てるのは珍しいよ」
「織元から試しにもらった生地を浴衣に仕立てたんで、試着してる」
「かっこいいなー……黒も似合うね。浴衣売れそう」
 兄さんの箸が止まった。
 一瞬泳いだ目が、俺を複雑な色で見る。「おまえ――」
「う、ん?」
「いや……いいや」
 小さくひとつため息して、兄さんがなにか諦めたように味噌汁を飲んでいる。
「え、なになに?」
「なんでもない。売れるといいけどな」
「うん」
 黒の塗り箸が、長い指に包まれて器用に動いている。
 浴衣の袖を邪魔そうにして、手慣れた手付きで肩にまくりあげる仕草に思わず笑った。
「浴衣、暑い?」
「まあ、慣れかな。冷房効いてるし別に……おまえも浴衣着たことあるだろ」
「小さい時だから覚えてないよ」
 兄さんが、俺を見て少し考えてから言った。
「なんか着てみるか」
 え、と思わず手が止まる。
「時間ができたら着付け教えてやるよ。この先、西村の次男ってだけで着物のこといろいろ訊かれる場面もあるだろ」
 ――西村の次男。
 そうだ、兄さんだけじゃなく、俺の肩にもその名前が乗っているんだ。
 俺は着物についての知識や、着付けや所作を特別に習ったことがない。兄さんが言うように知っておいた方がいい気がする。
「で、今日は何やりたいんだ」
「予備校の復習……古文でわかんないとこあって」
「うちの大学受けるって言ってたよな。学部どうするんだよ」
「経済か、国際学部がいいな」
 経済学部は、兄さんと同じ学部だ。
 一瞬、兄さんの表情が複雑な色を浮かべた気がした。
「あ……同じなの、やだ?」
 兄さんが怪訝な顔をする。「なんで」
「なんで、って……わかんないけど、同じ学部に弟が来たら嫌かな、って」
 なんだそれ、と兄さんが小さく笑う。「おまえはほんと……、心配だよ」
「え」
 兄さんの目に、憂いの色が浮かぶ。
「俺のことばっかり気にして、自分がなくなる」
 



「……おい、解いてるか」
 声をかけられて、はっと我に返った。
 兄さんが、俺のベッドでクッションを背中に立て膝をして、うちわをあおいでいる。片手には新書。さっきちらっと見えた目次には、産業がどうとかものづくりがどうとか書いてあったから、経営学の本だと思う。
 俺が問題を解いているのを、兄さんが本を片手に待っている。
 この感じ、この空気。高校入試の時に勉強を教えてもらった時以来だ。
 風にあおられて、黒い髪が揺れている。
 ずっと見ていたい欲求を押さえて、できるだけ早く採点まで済ませた。
「……できたー。兄さん、ここ……」
 質問しようと顔を上げて、慌てて口を閉じる。
 兄さんが静かな寝息をたてていた。文庫本が、兄さんの手の中で扇を開いている。
(やっぱり、疲れてるんだろうな……)
 申し訳ないと思いながらも、永遠に見ていられたらいいのに、とも思った。
 春の終わりに、この綺麗な唇とキスしたんだよな――。
 長い指に触られたことも、抱きしめられたことも、全部幻だったみたいに感じる。
 ばさりと、本が床に落ちた。
 そっと椅子から降りて、本を拾い上げる。ベッドサイドに置こうとして目に入った、兄さんの浴衣の胸がはだけている光景が恨めしい。
(クーラー効いてるし、風邪ひきそうだな……)
 そっと浴衣の襟を持つ。
 次の瞬間、腕を掴まれて、俺は思わず声が出た。「わっ」
 片目を開けた兄さんが、俺を眠そうな目で見ている。
 固まった俺は、慌てて頭をフル回転させた。
 兄さんの浴衣の襟を掴んでいる言い訳をしないと――。
「あ……ごめ、風邪ひきそうで」
「……起こせよ」
「気持ちよさそうに寝てたから、悪いなって」
 兄さんの双眸が、何も言わずに見つめてくる。
(……寝ぼけてるのかな)
 ドキドキして、思わず喉を鳴らす。「あ、の……」
 吸い寄せられるような空気に耐えかねて、言葉が出た。
 ふ、と兄さんが目を伏せたから、俺も金縛りが解けたように息を吐き出した。
「わからないとこ見つかったのか」
 頷くと、兄さんの手から解放された。
 机に戻ってペンを持つと、手が震えていた。






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