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 ◇


 夜9時過ぎ。
 一人、夜風に涼みながら、昼の熱気を吸ったアスファルトを歩く。
 ついつい、久留米とファミレスに長居してしまった。久留米から、世間の兄弟の『普通』のレクチャーを受けたけど、世間の普通と俺達の普通がどう違うのか、結局よくわからなかった。
 弟と「死ね」って罵り合うことこそ、正しき普通の兄弟喧嘩なんだ、って言うけど。
 俺は、一度も兄さんに頭に来たことはない。ましてや罵り合いなんて。
「……血が繋がってないからかな」
 俺達は、いつまでも他人行儀なままなのかもしれない。
 最初が歪んでると、全部が狂う――その通りかもしれない。
 歪み始めたのは、どこからだろう。どこから狂ってるんだろう。
 騙し騙し出してきた答えの一つ一つは、合っている気がするのに。どうしてこんなに苦しいんだろう。
 家が見えてきて、自然と足早になった。
 早く会いたい――つい、そう思ってまた虚しくなる。
 急いだところで、兄さんはまだ帰ってもいないし。
 ……こんな気持ちは、きっと兄弟なら持たない。
 凛とした兄さんの背中にすがりたいとか。着物がはだけた胸元を恨めしく思ったり、あの男っぽい手で抱きしめてほしいなんて、思うわけがない。
「……普通じゃない」
 普通でいられない。
 いくら心を掻き消しても塗りつぶしても、兄さんを、兄として見ることができない。
 いつまで?
 兄さんが、結婚しても?
 ……足が、急に前に進まなくなった。
 本当は、抱きしめてほしいと思ってる。
 昨日みたいに悲しくて不安になるような抱擁じゃなくて。
 5月のあの日のように、なにかまた間違いが起こって。兄弟じゃなくなってしまえばいいなんて心の底で願ってる自分がいる。
 好きでたまらなくて、あの人の全部が欲しい、って。
 ……深森さんが言うように、すべて歪ませたまま、本音では兄さんが道を踏み外すことを求めてるなんて、ひどい義弟だ。
「……頭、冷やしたい」
 踵を返す。
 こんな、夏の暑さにやられたように浮かされた頭のままじゃ、章宏兄さんには会えない。
 後ろから、静かなエンジンの音がした。黒塗りの車が家の前で停まる。
「あ……」
 兄さんが、降りてきた。
 心臓があからさまに音をたてる。とっさに植え込みの陰に隠れた。
 景色の中で、兄さんだけが仄かに輝いて見える。どれだけ歪んでいたって――これだけ誰かを美しく思えるなら、いいじゃないかとさえ思ってしまう。
 たとえ相手が義理の兄でも、ただ見とれているだけなら罪はないはずだ。
「送って頂いて申し訳ありません」
 兄さんの声が聞こえてきて、もっと体を小さくする。後ずさって、夜の気配の中に息を潜めた。
「ああ、いいんだ。こちらこそご馳走になったね」
 はっとした。
 ……松崎旅館の大旦那の声だ。車の運転席から、兄さんに声をかけてるのが見える。
「急にお店に押しかけて、すみませんでした」
 続いて聞こえた鈴が鳴るような声に、血の気が引いた。
(菜摘、さん……)
 後部座席の窓を開けて、道路に立つ章宏兄さんと話している。
 兄さんのメールの『急な来客』は、松崎さんたちだったんだ。
「章宏くん。私は君を気に入っているよ。それ以上に娘がなあ、君にぞっこんで」
「お父さん、古いよ……ぞっこん、って」
 面映そうな声が、"ぞっこん"を認めていた。
 兄さんの横顔が微笑んでいる。いつもの完璧な笑顔だ。
「君のお父さんは、ああ仰っていたが……お父さんのご意向だけじゃなく、君の意見も聞いておきたい。君自身のことだからね」
 息を止める。自分の胸の拍動が空気を震わせているのがわかる。
(父さんも、その席にいたんだ)
 大事な話をするための会食だったってことだ。どんな話をしていたのか、想像がつく。
 何も聞かずに、この場を離れた方がいいかもしれない。
 耳を塞ぎたい。でも、足が動かない。
「娘との話は、進めていいかな」
 松崎さんの、念を押すような言葉が俺の喉を締めた。
 兄さんの沈黙が、やけに長く感じる。
 心臓の音がうるさい。
(――断って)
 だらしない本音が、頭の中に響き始める。
(断ってよ)
 うるさい。バカなこと考えるな。
(誰のものにもならないで)
 嫌だ。何も考えたくない。
(兄さんが、好きなのに)
 ……苦しい。
 これ以上、息ができない。
 どんどん大きくなる自分の声に溺れてしまいそうで、怖い。
 一瞬後、静かな夜に響いた兄さんの声が、俺の聞き分けのない本音を遮った。





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