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「菜摘さんとのお話、進めさせてください」
 地面が揺れた気がした。
 すんでのところで踏みとどまる。
 心臓がどくどく打ってる。血が冷えて、全身が凍っていく。
 そうかそうか、という嬉しそうな大旦那の声が遠く聞こえる。
 ……わかってた。
 今、いつか来る時が、来たんだ。
 いつの間に会話が終わっていたのか、高級車がエンジン音を立てて目の前を横切った。思わず顔を背ける。
 真っ暗だ。頭の中が。
 兄さんに会えない。こんな、混乱したままじゃ。
 弟の顔をできない。兄さんを見たら泣いてしまいそうで、怖くて会えない。
 膝がわらって、体が震える。
 どうしよう。どうしたらいいんだろう――。
「へえー、あれか。西村の婚約者って」
 一瞬、また呼吸が止まった。
 恐る恐る振り向くと、去っていく車をぼんやりと眺めている深森さんが立っていた。
「どう、して……」
「あー、用事で近くに来たからな。今度は、お兄さんの顔でも見ようと思ってたのに、噂の婚約者に出くわしちまうとは」
 頭を掻いて、道の向こうを見ながら不満げな表情を浮かべている。「美人で金持ちのお嬢さんなんて、まあ、絵に描いたような――」
 言いかけて、俺を見た深森さんが目を見開いた。珍しく言葉を失って、止まっている。
「……おい」
 深森さんの、窺うような低音に応えることができない。
 息が震えて、うまく呼吸ができない。無理やり息を吸ったら、嗚咽になった。
 とっさに手で口を押さえる。家と逆方向に、来た道を慌てて歩き出す。
「どこ行くんだよ」
 ひとりになりたい。
 追いかけてくる声を振り切りたい。
 走り出した瞬間、腕を掴まれてガクンとつんのめった。「い……っ」
「待てっての」
 離せ。離して。
「おい……んだよおまえ……」
「は、なせ……っ」
 俺は、口ばっかりだ。
 いつかは来るはずだったこの時を、受け入れる準備が全然できてなかった。なにもできずに歪んでいって、心のどこかで兄さんの手を待っていた。
 弟でいなきゃいけないのに、弟でいられないなんて。
 恥ずかしい。逃げたい。
 今、ここから消えてしまいたい。
 今すぐ泡になって、何も考えずに済む場所へ行きたい。
 なのにこの人の手が、俺の邪魔をしてる。
「はな、せよ……っ」
 舌打ちが聞こえて、腕を引かれた。
 面食らっている内に、強く抱きすくめられて呼吸困難になる。
「っ……!」
「……バっカじゃねえの」言っただろ、と、鼻で笑われる。「おまえみたいなのには無理なんだよ、嘘つけねえんだから」
 体が軋むほど、強く抱きすくめられる。昨夜の兄さんと、全然違う腕。
「大好きなお兄ちゃんが他人のもんになっちまうのが嫌なんだろ」
「ち、が……っ」
「弟クンのブラコンは純粋なもんじゃないってのは、俺にはとっくにわかってたけど?」
 もがく俺の、涙でぐちゃぐちゃの目元を深森さんの指が拭った。
 思わぬほど優しい触れ方で、息が詰まる。
 深森さんが、俺を見つめてくる。
 いつもは、怖いほどの乱暴な視線で俺を見て、蔑んで嘲笑ってるはずの、この目が。
 哀れんでるのか同情してるのか。バカにしてるのか……本当に心配してるのか、よくわからない表情で。




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