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「俺、次講義あるんですけど……」
 そう文句を言ってみても、何も言わずに歩き続ける深森さんの背中を見ながら警戒して歩く。
 予備校のベンチと自販機が並んだ休憩スペースに来ると、深森さんが自販機の小銭投入口を見下ろした。「今どき小銭かよ」
 小さな舌打ちも聞こえた気がする。
 深森さんは文句を言いながら、ジーンズのポケットに突っ込んだ財布から小銭を出している。
『深森と会わない方がいい』
 あの時の兄さんの声が甦った。
 もしかしたらこの人は、兄さんを手に入れるためなら手段を選ばないような……深い闇を抱えている人かもしれない。とっさに視線を巡らせると、向こうのベンチに何人かが座って話しているのを見つけて安心する。
 派手な音を立てた自販機に驚いて視線を戻すと、深森さんが、取り出し口から缶ジュースを取り出していた。こちらに視線を投げて、言う。
「飲む?」
 ……なんだか普通だ。怒ってる様子もない。
 俺が首を振ると、そ、と気だるそうに言って缶の口を開けて飲んでいる。
「深森さん、何の用ですか」
「お兄チャンになんか言われたのかなーってさ」
 ぎく、とした。
 なんの前振りもなく本題に入るのは深森さんのいつものやり方だ。心の準備をする暇がなくて、いつも動揺してしまう。
「つまんないんだよなー、弟くん急にやめちゃって」
「……塾をやめたことに、兄は関係ないです」
「俺を見張るんじゃなかったのか」
「俺が塾にいたって……大学にいる深森さんを見張れるわけじゃないですから」
「へえ。想像してたより冷静だな」ゆっくりと缶を振りながら、深森さんが目を細める。「うまくいかないだろ」
「え」
「最初が歪んでるとさー、全っ部が狂ってくるんだよな。数学の問題解くのだって、はじめの計算が間違ってるととんでもない答えが出るだろ……だから俺は、嘘も誤魔化しもしない。どこかの誰かみたいには」
「……誰のこと、言ってるんですか」
「さあね」
 深森さんが、不敵な笑みを浮かべながら俺を見る。飲み干した缶をベンチに置いて、立ち上がった。
「弟クンは、ただの世間知らずだと思ってたけど。いーい具合に歪んでるよな」
「歪む、って……深森さんの方でしょ」
「初対面の相手に、兄さんに手を出したら殺す!なんて宣言しちゃう辺り、俺なんてとても敵わない歪み方だろ」
「初対面の弟に、兄さんに手を出すぞなんて宣言する人も相当だと思います」
「口の減らない……」ふ、と笑って深森さんが続ける。「はじめの計算間違えたままで、俺に勝てるかよ」
 深森さんは、俺が触られたくない部分に容赦なく押し入ってくる。挑発してからかって、俺を混乱させたいんだろうか。
「俺の、何が間違ってるって言うんです」
「さあね」
「それだけ、わざわざ言いに来たんですか」
「いーや?」
 深森さんが、小さく笑う。
 長い脚があっという間に間を詰めてきて、俺は思わず一歩下がった。
「……弟クンの顔見たくなっただけ」
 何気なく言われたセリフに、一瞬、虚を突かれる。
 これも……なにかの作戦なのかな。深森さんの言葉の裏を読み取ろうとしたけど、うまくいかない。
 混乱したまま見上げてる俺を、深森さんが感情の読めない目で見てる。
「この前、章宏と一緒にいるところ初めて見たけど、かわいそうだな弟クンは」
 思わずムッとする。
「そんなの、とっくの昔にわかってますよ……兄さんと比べられることなんてよくあることだし」
 今更かわいそうなんて言われても。
「は。ばかか、ちげーよ」
 深森さんの手が伸びてきて、俺は首をすくめた。
 指の背が、俺の頬を軽く撫でる。
「……ずっと、泣きそうな顔してんだろ」
 思わず目をみはった。驚きすぎて、深森さんから目を離せない。
 一瞬目を細めた深森さんが、すぐに手をひいた。「顔見れたから帰るわ。大学受かれよ」
 言うだけ言って歩いていく背中。
 俺は、呆然とその場に残されていた。撫でられた頬を、恐る恐るなぞる。
「……泣きそうな、顔……?」
 自販機に写った自分の顔を見る。
 わからない。泣きそうな顔なんて、した覚えがない。
 深森さんが残した缶を、ゴミ箱に投げ込む。やけに響いた不協和音が、耳について離れなかった。




 予備校が終わると兄さんの家庭教師だから、ここ毎日ずっとソワソワしている。
 でも、心がどこか晴れない。
 様子が変だった兄さんは、俺を抱きしめて……泣き出してしまいそうにも見えた。
 やっぱり何があったのか聞かないと。俺にだって、なにかできることがあるかもしれない。
「どっかで食って帰るかー」
 今日の講義わかんなかったわ、とぼやきながら歩く久留米を横目に見た瞬間、スマホが震えた。
 章宏兄さんからだ。
『急な来客で遅くなる。埋め合わせはするから』
 相変わらずの簡潔な文面。
「急な、来客……?」
 誰だろう。とにかく今日は……教えて貰えそうにない。
「章宏さんか?」
「あ、うん……よくわかったな」
「おまえの百面相は、大体兄貴絡みのことだもんな。ほんと異常に好きだよなーお兄ちゃんが」
 手が震えた。久留米にまで心を読まれてるなんて。
 急に向き直った俺に、久留米が、お、と顎を引く。
「俺のどの辺りが普通の弟じゃない? どうしたら普通になる?」
「おいおい……マジレス?」
 久留米がひとつため息する。「別に……そのまんまでいいんじゃねえの。仲が良いのは悪いことじゃねえし」
 スマホを握りしめた俺に、久留米が怪訝そうに眉を寄せる。
 誰にも知られないように。これ以上、兄さんに迷惑をかけないように。
 兄さんの大切な何もかもを、壊さないように。
「普通に、なりたいんだ」





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