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 夜半過ぎに、雨が降った。
 強い草いきれを残して朝には止んだことを、濡れたアスファルトが物語っている。
 雨を繰り返して、夏が過ぎていく。
 僕らは夏が終わるのを、ただ黙って見送るだけだ。




罪人は、それでも幸せを願う
第9話




    * * *




「晴哉」
 麻色の軽やかな着物姿の章宏兄さんが、俺の部屋に顔を出す。
「8時までに帰る。夕飯待たなくていいから」
 ドアを閉める手元を見送る。
 兄さんは、大学が夏休みに入ってから毎日、店にいつもより早くから出て行く。時計を見ると、朝の9時前だ。
 俺も予備校の準備をしなきゃいけない。机に広げていた参考書をバッグに入れる。
『……少し、このままで』
 昨夜、そう言って俺を抱きしめた兄さんは、体を離すと何事もなかったかのように勉強を見てくれた。
『本当に大丈夫?』
 もう一度訊いたら、少し疲れただけだから、と言ったきりだ。
 俺の窺うような視線に、わざと気づかないフリをしていたようにも思う。
 ……あの時、兄さんの心に何が起こっていたんだろう。
 もう二度と来ないと諦めていた兄弟らしい夢のような日々が戻ってきたと思っていたのに。消え入りそうな兄さんの声と腕が、頭を離れない。
 薄い氷の上を歩いているような不確かさが、俺を不安にしていた。




 パンッと肩を叩かれてはっとして我に返ると、久留米が眉を寄せて俺を見ていた。
「次、隣のビルに移動だぞ」
 予備校の広い講義室でバタバタと騒がしく人が蠢いてる。慌てて教材を掻き集めて席を立つ。
「なんか上の空だなー。そんなことで模試大丈夫かよ」
「……先月は、久留米より点とれたから大丈夫」
「うっせ! おまえ、んなのとっくに追い抜いてるに決まってんだろ」
 冗談を言い合いながら、足早に玄関に向かって廊下を歩く。
「ん……? あれって」
 怪訝な顔で久留米が指さした先を見て、足が止まった。
 すらりと背の高い男の人が、気だるそうに茶髪を掻き上げて壁に背中を凭れている。
 誰かを待っているようにも見えて、俺は思わず眉を寄せた。「深森さん……?」
 こっちに胡乱な目を向けた深森さんは、一瞬後には、目が笑っていない微笑みを浮かべて俺に手を上げた。





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