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「晴哉」
 眉を寄せた兄さんが立ったまま俺を見下ろしている。
 ……いつの間に。リビングの壁時計を見上げると、夜中の1時を少し過ぎたところだった。
 眉間の皺が深くなった兄さんにつられて、眉を寄せる。
「大丈夫か」
「え……?」
「取り憑かれたみたいに……寝ないとぶっ倒れるぞ」
 そう言いながら、テーブルに散乱してる開きっぱなしの参考書の山を胡乱な目で眺めてる。そんな兄さんの姿に俺は、どこかほっとしていた。
 ほんのひと月前は、どうなってしまうかと思っていた。兄さんが家に帰って来なくなって、そのままこの日常も失うんじゃないかって。
 今は、居心地の良いあの日常に戻っている……そんな気がする。
 兄さんは、店に稽古に大学に、それはそれは以前にも増して忙しそうで、家で顔を合わせることはほとんどない。会って話した回数を指折り数えているうちに、あっという間に6月になってしまった。
 だけど……前みたいに避けられることはなく、穏やかに話ができている。
 いつでも泣き出せそうな気持ちを抱えながらも、兄さんの横顔を見ていられる時間。
 ――ずっと、この時が続けばいい。
 俺は、やっぱり間違ってない。間違った答えは、選んでない――そう思う頭の端で、これは本音じゃないと言い続ける俺も居て、相変わらず心はバラバラだ。
「でも今って、一生で一番勉強する時期な気が……」
「だとしても、6月でこんな調子じゃ当日までに息切れするぞ。クマ作って――」
 言いながら、兄さんが俺の顔にふいに手を伸ばす。ごく自然に頬に触れられて、息が震えた。俺の目の下を親指でなぞって、手が離れていく。
 ……純粋な弟の顔でいることは、大変だ。
 ほんの一瞬でも触れられることを悦んでしまう、自己嫌悪。
 クマの原因の半分は、深森さんだ。
『俺、西村が好きなんだよ』
 挑戦的な冷たい目で言われた台詞が、ずっと頭の中で回ってる。
 個人塾では、深森さんは普通に先生をしてくれる。大学での喧嘩腰な会話なんてなかったかのように、すべてが普通だ。
『わざと違うこと教えたりしないですよね』
『弟クン、結構言うねー』
 挑みかかった俺に、深森さんは口端で笑った。
『弟クンには、うちの大学にしっかり合格してもらわないと』
『……なんでですか』
『リングに上がってもらわないことには戦えないだろ。こてんぱんにしてやるよ』
 さらりと言われたことを思い出して、奥歯を噛む。
(……なんで、こんなに焦るんだろう)
 深森さんは、かっこいい人だ。きっとモテる人だろう。
 だから、というだけじゃない。
 あの、余裕のある態度。章宏兄さんと並んで立てる、大人びた雰囲気。
『君が白修院大学に落ちた後は、お兄さんがどうなっても知らないからな』
 意地の笑いを浮かべた深森さんを思い出して、思わずデニムの膝を握る。
(――……とにかく、絶対に受からないと)
 視線を感じて顔を上げると、兄さんが俺の目を見ていた。
 ……こういう時の兄さんの無言は、俺の顔色を正確に読もうとしている時だ。
 何の情報も顔に出さないようにしないと。
「もう少しやったら寝るから」
 兄さんは一瞬目を細めて、テーブルの上に滑らせた目を止めた。
 その視線は、白習院大学の過去問に注がれている。
 今度は複雑な色を目に浮かべて、俺を見た。
「うちの大学受けるのか」
「あ……ううん、ただ問題解いてみたくてーー」
「オープンキャンパス来てたんだって?」
 ぎく、と肩が強張る。
 兄さんの耳に入るだろうとは思っていたけど……もう2週間も前のことだ。油断していた。
「雰囲気とかさ、やっぱいいよね。通えたら嬉しいとは思うけど……今の俺じゃ全然無理だし」
 兄さんは、なにか考えるように俺を見ている。
 背筋がひやりとして、思わず言う。「……俺が白習院受けたら、やだ……?」
 今度は、兄さんが一瞬、虚をつかれたように目を大きくした。
「いや……おまえがまた面倒に遭わないかの方が心配だけど」
 中学高校の頃、俺が女の子たちに兄さんへの伝言係になっていたことを言ってるのかな。
「でも俺、結構楽しかったよ?」
 苦笑いしたら、兄さんがため息した。
「おまえはよくても俺は嫌なんだよ。兄貴は、弟に嫌われたくない生き物だからな。煩わせたくない」
 俺は、驚いて息を詰めた。
 章宏兄さんは最近、照れもなく優しいことをさらりと言う。それにいちいち面食らって、どうしようもなく嬉しくなってしまう。
 言葉が出てこないでいる俺に、兄さんは眉を上げて気まずそうに視線を外した。
「今日はもう寝ろよ。わからないところがあれば、また見てやるから」
「……ありがと……」
 章宏兄さんが、俺の頭を軽く押しやるように撫でた。
 リビングの調光式の照明にぼんやり照らされている兄さんを見上げる。
 ――……ああ、幸せだ。
 俺は、この人に幸せにしてもらっている。
 綺麗な兄さんを見ていたら、すべてがどうでもよくなる。
 だから、この幸せを壊したくなくて。深森さんのことを、言い出せなかった。





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