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 どうしたいのかも、どうなりたいのかもよくわからない。
 好きが深くなるほどすべてが歪んでいく。
 心が、俺のものじゃなくなっていく。




罪人は、それでも幸せを願う
第6話




 大きな講義と、小さな授業。
 受験勉強が本格化してきた夏休み前、俺は、義父さんの許しをもらって2つの予備校に通うことになった。
 ……勉強に逃げ込みたかったのかもしれない。
 いろんな想いが襲ってきて、どうにもならない現実を忘れるために、文字の海の中に逃げる。
 すべてに文法や方程式のように正解があって、目に見える答えが選べるなら、どんなに――。
「あ、弟くん」
 個人塾の受付で正司くんのお姉さんとはち合わせる。
「オープンキャンパスの時は、ありがとうございました」
「いいえー。うちの塾にしたんだったよね。私、世界史担当なんだー。晴哉くん世界史は?」
「選択してないです」
「……英語も教えられるから! 世界史だけの女じゃないの、私!」
 お姉さんにつられて笑う。
 受付の人が、プリントを指で押さえてなにか確認している。
「西村くんの17時からの英語、今日は深森さんね」
 思わず一瞬、眉を寄せる。聞き覚えのある名前に考えを巡らせる間もなく、自動ドアが開く音がした。
 振り返って、飄々としたスーツ姿の長身に一瞬息を呑む。
「深森、さん……」
 その人はまさに白習院大学の廊下で、『弟くん、君が邪魔』と言った人だ。
 呆然と見ていると、深森さんは一瞬俺を見てから講師の控室に入って行った。
「少し待っててね」
 受付のお姉さんに言われて、上の空で頷く。
「初めての先生の授業、緊張してる?」
 緊張というか……困惑というか。
「大丈夫大丈夫! 深森先生教えるの上手だし、優しいから」
「は、はあ……」
 曖昧な返答をしたタイミングで、深森さんが出てきた。
「さてと……西村くん? よろしく。深森です」
 知ってます、と内心返事して、形ばかりの会釈をする。
 深森さんは、受付のお姉さんから薄いファイルを受け取って、先に歩き出した。
 引き戸を開けて進む背中について行く。
 ……青いカーペットの床を歩きながら、頭は疑問でいっぱいだった。
 さほど長くない廊下の両脇に、小教室が4つ並んでいる。
 更に奥に、2人座れるブースが並んだ個人授業用の大部屋があって、深森さんに続いて入ると、一番奥の窓際の4と番号がついたブースに辿り着いた。
 深森さんが机にファイルを置いたタイミングで、俺は思わず口を開いた。
「どうしてここに」
 一瞬、間が空いてから、深森さんは、なんてことのないように俺を見下ろす。
「どうしてって、バイトだけど」
「なんで……ここなんですか」
「さあ、なんでだろうね。縁があるのかなあ、俺たち」
 不敵に笑う姿を、俺は、知らず知らず睨んでいた。





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