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「おまえ、遣い下げだよ」
 息が凍った。
 まっすぐに見下ろしてくる兄さんの目は揺るぎがなくて、本気だと俺に語っていた。
「扱いの悪い店にならないように、口添えはしておいてやる」
「――俺、他所へ……遣られるんですか……」
「もう一生会うことはないよ」そう言って兄さんが、背中を向ける。
 頭の奥で、ぐわんぐわんと鐘が鳴っているみたいだ。
「明朝まで時間をやる。酔いが抜けた頃、一度だけ弁解においで。聞いてやるから」
 頭冷やせ、と呟いて、その背中が行ってしまう。
「柏木兄さ――」
「くどい」
 ……背中越しに話をしないで。
 ちゃんと俺を見て。
 俺の目を見て、二度と顔も見たくないって、そう言ってよ。
 俺は、気がついたら、俺の縋る声を振り切ろうとした兄さんの腰に飛びついていた。
「ば、離せ――」
「いや……!」
 兄さんが小さく舌打ちする。軽々と俺の腰帯を掴むと、俺を空いた座敷に引きずって、放り出した。
 どどっと畳に転がって、手を擦る。
 行灯の燃えさしの油の匂いと酒の香り。
 庭の石灯籠の情けばかりの灯りが、障子越しに部屋の中をぼんやりと照らしてる。
 俺は、座敷を出て行こうとする兄さんの腕に取り縋った。
「離せ」
「や……っ」
 もう一度取りすがろうとして、手首を掴んで捻り上げられる。
「ぃあっ……」
「男娼に惚れ込むなんて、下の下だろうが……!」
 聞いたことのない荒い語気に鼓膜を打たれる。
「じゃあどうして……っ」
「あ?」
「兄さんにとって……俺は夜だけ人に成る魚なんですか……っ」
 一瞬、兄さんの息が止んだ。
 俺の手首に、兄さんの指が食い込む。
「……っ、俺は、昼だって人です、兄さんを慕ってる人間です……っ! 骨を抜くだなんて……どうしてあんな台詞――」
 一瞬、兄さんが渋い表情を浮かべたのを、俺は目ざとく見てしまった。
「……誰の入れ知恵か知らねえが、おまえが何の話をしてるのかわからねえよ」いつになく男口調の兄さんが、吐き捨てるように言った。
「美魚艶話……兄さんが見に行った、落語の一席だって……っ」
 ふん、と柏木兄さんが鼻先で俺の言葉を吹き飛ばす。
「酔っぱらいのたわごとを真に受ける奴がいるとは、驚きだな」
 嘘だ嘘だ。
 酒に酔って前後不覚になった柏木兄さんなんて、見たことがない。
 たわごとだなんて、そんな言葉で誤魔化さないで。
「兄さん、ちゃんとお話してください……っ」
「さっきから話してるだろ。おまえは水揚げが不安なあまりに、俺への思慕に逃げようとしてるだけだ」
「してない……っ、俺は……!」
「おまえを抱く気はない」
 恋しい人の言葉が、俺の鱗を剥いでいく。
 もう、たまらなかった。
 柏木兄さんの懐を掴んで、力めいいっぱい引き寄せる。
 ふいの俺の行動によろめいた兄さんに、伸び上がって、その唇にぶつけるように口づけした。
 俺はきっと今、紅緑が言ったように情狂いの顔をしているに違いない。
 不意をつかれた兄さんがたたらを踏んだ瞬間、胸を押して引き倒す。こんな力が出るなんて、自分でも驚いた。
 柏木兄さんの悩ましい紫の着流しの袂を帯から必死で引きずり出しながら、汗の浮いた胸元にかじりつく。
 白粉の香りと、女か男か知らないけれど、肌を吸った痕が散っているのを上からなぞり潰すように吸い付く。
 柏木兄さんの方がよほど腕っ節はお強いけれど、そんな人を相手にでも刺せば罪になるように、こんな風に乱暴に仕掛けるのは立派な罪かもしれない。
 だったらいっそ、怒った柏木兄さんにここで殺されてしまいたい。
(……ああ、こんなに堕ちてしまった)
 目も当てられないような、男娼腐れに成り下がってしまった――。
 兄さんの抵抗がないことに甘えて、肌を舐めて辿る。
 呼吸で上下する胸。おへそになだらかに続く筋肉の隆起――あんまり綺麗で、夢中で舌と唇を這わせる。
 おい、と頭上から咎めてくる声を聞かないふりをして。
 高価な香の香り。寝所香の間に感じる兄さんの汗の匂いに、息が上がる。
「ん……っ」
 腹筋の稜線に吸い付いて、無我夢中で舐めた。
 呼吸が上がって、体温が上がる。
「あにさ――」
 興奮して思わず声を漏らした途端、俺は体の芯を失った。





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