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「兄さん、お願いがあります」
「ダメだ」
 即座にきっぱりと言われて、今度は俺が面食らった。
「まだ俺、なにも言ってない――」
「そんな媚びた目で見たってダメ。口に出すなよ。言ったらこの場で遣い下げる」
 脅迫めいた言葉に、俺も火がついた。
「俺がなんてお願いをするのか、兄さんにわかるって言うんですか」
「顔に書いてあるからな」
 兄さんが、俺の手をぱっと振り払う。「ばかなこと考えてないで、仕事に戻んな」
 そう言って踵を返そうとする背中に、俺は言った。
「俺、ご主人に言うつもりです」
 柏木兄さんが、足を止めてゆっくりと振り向く。「……なにを」
「座敷に出ない、って」
 一瞬にして、柏木兄さんを包む空気が凍った。
 酔った頭でも、さすがに兄さんの剣呑な空気が怖くなる。思わず喉を鳴った。でも、もう引き下がれない。
「髪を掴まれて引きずり回されたって、座敷には上がりたくないです」
「おまえ、俺を脅す気」
「なんで俺が水揚げを拒むと、柏木兄さんを脅すことになるんですか」
 乱暴に足音をたてて迫ってきた兄さんが、俺の胸ぐらを掴んだ。使われていない奥の座敷へ向かう廊下に引っ張り込まれる。
「っ」
 ほとんど灯りのない廊下の漆喰の壁に、背中を強か押し付けられて呻いた。駄目押しに、顔の横の壁にどんと乱暴に手を突かれて、思わず肩が竦んだ。
 兄さんの髪が、深紫の着流しの肩を滑る。それが、やけにゆっくり見える。
「おまえ……あまり舐めた口をきいてると知らないよ」
 本気の冷ややかな目で見られて、怯えが体を走った。
「言うことを聞かない奴は、折檻と決まってるんだ。水責め、鞭、荒縄責めに線香焼き……そっちの趣味がある男衆にひどくやらせようか」
 微笑みさえ浮かべた兄さんの口調が、手足が冷えるほど怖い。
 ……でももう、折檻でも遣い下げでもなんでもいい。
 俺は、震える声を喉から絞り出した。
「……柏木兄さん以外の人と、したくないんです」
 きつく眉根を寄せる兄さんの胸元を、両手で掴んで乞いた。
「一度だけ……一度だけでいいんです……っ、お願いですから俺を抱いてください」
「ばかが……堕ちるなと言ったのに」
 呻く兄さんに取り縋る。「後生ですから……!」
「夕凪」
 言葉を遮る、冷たい声。
 俺は、これ以上兄さんに拒絶されたくなくて首を振った。
「聞け」
「嫌だ――聞きたくない……っ」
「こっちを見な」
 嫌だ。
 見上げればきっと、見たことがないほど凍りついた柏木兄さんの目が俺を見下ろしてる。
 その冷たい気配で、俺を黙らせないで。今度ばかりは、あなたの言うことを聞きたくない。
 だって、兄さんだって。
『――俺にさばかれて骨を抜かれちまうよ』
 どうして俺を、恋しい魚になんて重ねたの。
 なんでご自分を、狂った色男に重ねたの。
 お酒の戯れでからかった?
 困惑する俺を見て、楽しもうと思った?
 あなたの本心がわからない。心を教えて欲しい。
 そうでないと、俺の頭の中は、あなたのことでいっぱいになり過ぎて。
「……他の男を迎える前に、一度でいいんです……っ」
 掴んだ胸元を見つめたままいくら揺さぶったって、柏木兄さんはぴくりともしない。
 抱く気は更々ないと言われているようで、心の内がどんどん重くなる。
 この、兄さんの強い気配にいつも負けてきた。でも今の俺にとっては、抱いてもらうか遣い下げか、道はふたつしかないんだ。
「どうして……うんと言ってくれないんですか……っ」
「人の目を見もしないで、話を通そうっての」
 凄んだ声がして、戦慄のあまりに顔を上げる。
 予想外に、兄さんはいつもの眼差しで俺を見ていた。「ひどい駄々だな」
「駄々じゃないです、俺は、本気で――」
 取り付く島もない、といった風情の兄さんが、壁から手を離そうとする。
 ――嫌だ。
 紫の着流しの胸元を強く掴み直す。
「……行かないで、兄さん……」 言った声が、震えてしまった。
 いつもの感情の読めない微笑みが、たっぷりと見下ろしてくる。
 兄さんは、俺の手を包むように握ると、とても穏やかに言った。





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