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 水揚げまで、十日。
 座敷遊びが二回続いて、いつもより酒を多く頂いた自覚はあった。
 兄さんがお客の手に触れたり、肩に触れたりするのを横目で見ながら――ああ、俺もその手に触れられたい。
 頭の中は、そればかりで。
 その長い指が、とても遠い。
 わけもなく哀しくて、何度も廊下で涙ぐんだりした。
 御酒のせいだけじゃない。
 圧し殺していた自分の心がもう、壊れたように溢れて溢れて、止められなかった。


「夕凪」
 御膳を持ったまま振り返ると、兄さんが紫の着流しで懐手に俺を見ていた。綺麗な切れ長の眼は、ひっそりと冷たい。
 座敷は一番盛り上がっている時間で、どんちゃんと笑い声が響いている。
 冷ややかな温度の兄さんの佇まいにも、俺はさほど動揺していなかった。酒は人の気を大きくするというのは、本当だ。もう何も怖いものなんてない――。
 廊下を店の子たちが忙しく行き交っているのを横目に、俺は、柏木兄さんを見上げていた。
「俺が言いたいこと、わかってるよな」
「すみません」
 潔く謝ったのが予想外だったのか、兄さんが怪訝そうに眉を寄せて言う。
「……気づいたのが俺だけだったからよかったものの、お客を睨むなんて」
「兄さんに無体をはたらいたので、思わず」
 団体客の一人の男が、酔った勢いで柏木兄さんを組み敷いた。
 そんなことは兄御には日常茶飯事だから、兄さんはさすが、さらりとかわして流していたけど。
 俺は、まるで流せずに、お客をきつく睨みつけてしまった。
 いとも容易く、柏木兄さんに触るお客。金さえ払えば、兄さんとお戯れに興じれるお客。
 誰よりも兄さんに触れたくて、触れてほしくて……たまらないのは俺なのに。
 ――こんな調子じゃ、俺はもう駄目かもしれない。
 兄さんが、廊下を行く子を呼び止めて、俺の手から御膳を取り上げる。
「これ、下げといて」
 あい、と返事して、店の子はちらと俺を見ると、御膳を持って横を通り過ぎていく。
 これは、本格的にお説教がはじまりそうだ。
「どうにも、おまえらしくないね」
「……俺らしい、ってなんでしょうか」
 兄さんの気配が、黙った。
 他の兄御なら、仕置の平手でも飛んでくるものだろう。
 けれど来たのは、頬を撫でる手だった。途端に、とろり、と頭の奥が溶ける。
「夕凪……さては飲みすぎたな。変な酔い方しやがって」
 つい、と熱い耳たぶをつままれて肩が震えてしまう。
「ん……っ」
「こら、妙な声出すな」
 ぺん、と横頭をはたいて手が離れていく。
 俺は思わず、その手を掴んだ。
「なに」兄さんの固い声が、俺を牽制する。
「……もっと、触ってほしくて」酒の力を借りてる。自分でもわかってる。「せめて頭を撫でてください」
「夕凪」
「それくらい、いいじゃないですか……俺、もっと兄さんに可愛がってほしい」
「妙なことを――」
 柏木兄さんが、珍しく眉根を寄せて言葉を出しあぐねている。
 その隙を逃さず、俺は言った。





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