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 もうひと月が経つというのに、兄さんの胸に縋った感覚が消えない。覚えていたいと、体が駄々をこねているようだった。
 あの月夜の翌日、兄さんは先に家を出て、大学へ行った。
 俺は少し遅れて、サチさんに行ってきますと挨拶して出かけた。
 お互いに、何もなかったような日常に戻っていった。
 でもひとつだけ、変わったことがある。
『晴哉』
 兄さんが俺を呼ぶ声に、複雑な響きが混じるようになった。
 呼ばれる度に、後ろめたさと虚しい気持ちが入り乱れる。
 いずれ離れていく人だから。新しい家庭を築いて、新しい家族と暮らす人だから。
 そう思う度、逆らえない現実を疎ましく感じた。
 

 高3の5月も半ば過ぎると、周りは受験の準備にざわつき始めていた。
 11時を指す教室の時計を眺めていたら、久留米が俺の席にやって来た。
「西村ぁ、予備校決めたか」
「いや、まだ……」
「西村はもちろん、白修院大学だろ」
「え」
「兄貴通ってんじゃん」
「だからって……志望してるわけじゃないよ」
 同じ大学なら兄さんと学校でも会えるかもなんて、未練がましいことを考えたのは確かだ。
 久留米と放課後に予備校めぐりをする約束して、始業の鐘が鳴る。
 壁時計の秒針をぼんやり見ながら、思う。
 日常を生きよう。
 この心を体の中に閉じ込めたまま、年を重ねるんだ。
 そのうちにこの想いも、消えずとも薄れるーーこれから毎日、そう言い聞かせて生きるんだ。




「個別塾って手もあるよな」
 そう言って久留米に勧められるまま訪れた塾は、高校の最寄り駅から2駅先だった。
 案内をもらいに入ると、丁度授業を終えたらしい高校生が学習室から出てくる。
 続いて出てきた女の先生は、まだ学生みたいに見えた。受付で説明を受けていた俺の隣に来て、なにか書類を書き込んでいる。
 視線を感じて顔を向けると、その女の先生はじっと俺を見つめていた。
「……もしかして西村くんの弟くん……?」
「え……?」
「覚えてない? ほらっ、クリスマスパーティでおうちにお邪魔した――」
「あ。正司くんのお姉さん」
「そうそうそう!」
 半年前、高2の冬のことだ。
 章宏兄さんが、はじめて家に友達を呼んでクリスマスパーティをひらいた。
 何人か高校生も呼んでくれて、俺も混じってパーティをした。クリスマスらしいことをしたのはあれがはじめてで楽しかった。
 その時に来ていた、俺よりひとつ年上の正司くんの、お姉さんだ。当日はお酒でベロベロに酔っ払ってクダを巻いていたけど、こうして目の前にすると大人っぽくて綺麗な人だ。
「正司くん元気ですか?」
「元気元気。無事大学デビューして超生意気だよぉ。ちなみに同じ大学」
「白修院大学受かったんですか、すごい」
「そうだ。来週うちの大学でオープンキャンパスあって……あ、お兄さんから聞いてるか」
「いえ――」
「来なよー!」
「マジっすか、行きたいっすわ!」
 正司くんのお姉さんの声に、久留米が目を輝かせる。
 行けばまた兄さんに気を遣わせてしまいそうで、気が進まない。
 俺が微妙な顔をしていると、正司くんのお姉さんが眉を寄せる。「学校、実際に見に行った方がいいよ? 選択肢はたくさん作っておかないと」
 心が疼いた。
 選択肢。選べるほどの道があったら――。
 行こうぜ、と促してくる久留米に、はっと我に返って「わかった行くよ」って返事する。
 俺の日常は、やっぱり兄さんの周りを回ってばかりみたいだ。




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