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 願いと、本音。どちらを選んだとしても。
 あなたと、自分。どちらを大切にしたとしても。
 きっと行き着く場所は同じ。

 僕らの未来には、なにもない。







罪人は、それでも幸せを願う
第5話







 ――目を開ける。
 障子の間からぼんやりと差し込む月明かりが一筋、畳に投げ出した俺の足と……兄さんの着物の足に注いでる。
 まるで、繋がれた足枷だ。
 きっともう夜更けだろう。
 い草と、着物の春香。背中に感じる鼓動。体温。
 兄さんの羽織ごと体を包まれて、抱きしめられてる。
 俺の腰を抱いている、兄さんの腕。それはもう、大人の男の手で。
 どんどん知らない人になっていく。遠くなっていく。
 身じろぎもしない胸に、このままもたれていたい。息を潜めて、誰にも見つからないように。ずっと――。
「……落ち着いたか」
 ぽつりと、髪にかかった優しい声が時間の終わりを告げた。
 泣きはらして束の間寝入っていた俺を、兄さんは桐箪笥に背中を預けたままこうして小一時間居てくれたみたいだった。
 泣いた余韻で、目が熱を持っている。
 兄さんの腕が解けるのを合図に、俺はゆっくりと体を起こした。微かな衣擦れの音を立てて羽織が畳に滑る。
 立てられた膝の上に投げ出されている兄さんの手を見つめながら、重い唇を動かした。
「……ごめんなさい」
 兄さんの顔が見れない。
 みっともなく泣きわめいてしまった。兄さんの記憶を消したい。
 春の夜は肌寒くて、さっきまで感じていた体温が恋しい。また、その胸に戻りたい。
 邪な願いを振り切るために立ち上がろうとしたら、腕を掴まれた。そのまま、もう一度その場にぺたりと座り込む。
「……ダメ、か」兄さんが、目を伏せながら言った。
「え――」
 胸の奥が脈打つ。
 張り詰めた静寂が、香が溢れる部屋に落ちる。
 ――ダメ?
 言葉の意味を確かめたくても、声が出なかった。
 堰を切ってしまうのが怖い。
 どんな意味をも持っていそうなその言葉が、切なくて、怖い。
 兄さんはしばらく黙った後、掴んでいた俺の腕をゆっくりと離した。
「……壊さないって、約束したもんな……」
 どこか独り言のようだった。
 男っぽい手が、行き場をなくしたみたいにその黒髪を無造作に掻き上げている。それは、なにか諦めた雰囲気をも持っていて、俺の胸を掻き乱した。
 本当は、その手でもっと触れてほしいのに。そのため息を分け合えるくらい近づきたいのに。
 言い出せない。
 俺は、月明かりに沈む美しい人を、ぼんやりと見つめていた。
 兄さんが、目を上げて俺を見た。
「おまえは、何も心配しなくていいから」
「え……」
「俺が守る」
 心臓が、強く鳴った。
「おまえが背負い込んで思い詰めることは何もない」
 兄さんの頬に、月の青い光がまつげの影を落としている。
 何か、言わなきゃ。
「……違う」
 兄さんが、呟いた俺を見る。
「俺、守って欲しいわけじゃないよ」
 兄さんの足枷になりたくない。
 じゃあ俺は。どうなりたい?
 兄さんのことが好きな俺は――どうしたい?
「晴哉。俺のことが……大切だって言ったな」
 まっすぐな目が、俺を見てる。
「俺も、おまえのことが大事だよ」
 逸らせなくて、その目を見つめ返す。
「……誰よりも、大事に想ってる」
 兄さんの目が、微かに熱っぽく潤んだみたいに見えた。
「俺が言う意味、わかる?」
 ……ああ、わかる。でも、わからない。兄さんのそれと、俺の心は同じじゃないかもしれない。
 喉の先まで、言わないと決めた言葉が出かかる。
 兄さんの手が、俺の肩に滑る。その温度で溶けているんじゃないかというくらい、体が火照る。見つめられる目に、このまま吸い込まれてしまいそうで。
「にい、さ――」
 声が上擦った。
 部屋の空気が、微かに熱を帯びた気がした。
 兄さんの目が、俺を許して、促してる。
 きっと今、この心を言ったら、兄さんは受け入れてくれる――そんな気がする。
 頭の奥で心臓が鳴って、俺を急かした。
 壊したくない。……壊れたい。ふたつの本音が暴れる。
 ――章宏兄さんと、このまま壊れてしまいたい。
 目の前に横たわる果てしない一線を、越えてしまいたい。
 兄さんの目が、俺の唇を見た。体温が上がる。
 美しい唇に吸い寄せられそうになる。
 この人が今、欲しくてしょうがない。へたり込んだ膝をもじりと動かす。
 兄さんの手が、俺の肩の上で重くなった。
 恐る恐る、冷たい畳に手をついて。美しい人に、体を寄せる。
 薄く開かれた綺麗な唇が、俺を誘って見える。月の光が雲で翳って、部屋が薄闇に包まれる。
 ……ああこれなら、誰にも見つからない。ここで、兄さんと何があったって、誰にもーー。
 思った瞬間、頭の奥が冷たくなった。
(……俺、兄さんが欲しくて欲しくて、変になってる)
 兄さんのことが好きだから、したくてたまらなかったキスをして。着物の背中に縋って。心のまま欲望のまま、この線を越えたとして。
 その先に、何がある――?
 自分の気持ちを大事にしたからって、じゃあどうなるって言うんだ。
 この優しくて綺麗な人が、苦しむだけだ。今でさえ、こんなにも苦しい表情をしている美しい人が。その背中に、更に重荷を背負い込んで。
 出会ったその時から、選べる道なんてない。俺には、この人の背中を見るだけの選択肢しかない。
(……俺、なにをしてるんだろう)
 熱が冷えて、体を引いた。愛しい手から、そっと逃げる。
 兄さんの瞳が揺れて、長い指が肩を滑ってほどけた。
 言葉が……出てこない。
「ごめ、なさい……俺、部屋に戻る――」
 ふと、きれいな指が俺の頬を撫でて、つまむようにする。
 思わず顔を上げると、憂いを帯びた兄さんの目が俺を見ていて、きゅぅと心臓が鳴った気がした。
「……なんて顔、してんだよ」
 頬から後頭部に滑った手が、俺を引き寄せる。
 兄さんの胸の中へ逆戻りして、柔らかく強く抱きしめられる。
 このまま。
 めちゃくちゃに掻き抱かれて、いっそ全部壊れてしまいたいような。そんな気持ちが、ほんの弾みに口に出てしまいそうだった。
 着物のままの兄さんの背中に手を回して、ぎゅっと掴む。兄さんの脚の間で座り込んだまま、この時だけ、すべてを兄さんに預けたかった。
 もっともっと強く抱きしめて欲しい。今ここで、俺の中の好きの気持ちが砕けて散ってしまうくらいに。
 でも、さっきまで部屋を包んでいた熱っぽさは、月の光に照らされて消えていた。
「……章宏兄さん」
 兄さんが、身じろぐ。
「俺にも、兄さんを守らせて……」
 それが、俺が言える限られた言葉だった。
 応えるように、兄さんが腕に力を込める。
 繋がってしまえたら楽なのに。結んではいけないんだ。
 結んだらきっと、ふたつの体は、ほどけないまま奈落へ落ちてしまう。

 ……神様は、なぜこんなに美しい人に、俺を引き逢わせたんだろう。
 試すつもりだったのなら、もう赦してほしい。
 俺が望んでいるのは、ただひとつのことなんだとわかってほしい。
 一緒に壊れてしまいたいほどに愛しい人の、幸せ。
 だから俺はもう一度、わがままに泣きじゃくった弱い自分を、殺した。




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