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こひとうつしよ   8








 月のない晩、逢絢楼の客室が一部屋増える。
 間違って入ったが最後、二度と此の世に戻っては来られない――。
 俺がこの店に入ってすぐ、怪談話のひとつとして聞いた話だ。
 幼心に、それはそれは怖くて。夜更けまで残って片付けをする時は座敷の名前の札を何度も何度も確認してから入った。
 すっかり忘れていたその話を何年かぶりに聞いたのは、朝の食堂でだった。
 配膳係から、味噌汁と麦飯、漬物と煮物少々を受け取って、柏木兄さんに『稽古』の仕切り直しをどうお願いしようかと頭をぐるぐるさせながら座るやいなや、新入りの見習いが前の席にやって来て言った。
「開かずの間って本当にあるんですか?」
「夕凪兄さん、見たことありますか?」
 まだ兄さんじゃないよ、とひとつ釘をさして答える。
「見たことあったら俺はとうに此の世にいないと思うけど」
 うわあ、と2人は大げさに怖がって、朝食をかきこみながら開かずの間の話を続ける。
「南舎の裏手に、もうひとつ離れがあるらしいんですけど」
「あー……あるっていうのは聞いたことあるけど」
 この逢絢楼の敷地内で、上位の兄御たちの舎より更に南にあるといわれている離れだ。
 ご主人の住まいがあると聞いているけど、高い塀と分厚い扉で閉ざされているものだから、実際にその離れをこの目で見たことはない。
「どうもそこが怪しいんですよ……」
「実は古い折檻部屋で、きつい折檻の果てに死んじまった男娼がたくさん埋められてるとかーー」
「おまえら! 無駄口聞いてないで食べたらさっさと掃除に行け!」
 男衆の一喝が飛んできて、2人は黙り込んでしまった。
 目まぐるしい毎日の中で、そんな怪談話もすっかり忘れていた。まだ初々しい2人の姿に懐かしさを感じる。
 まだ、兄御になって店に出るということに現実味が持てないでいた頃。出会ったばかりの柏木兄さんを遠くに覗いながら、ひたすらに憧れていた頃。
 思えば、あの頃が一番幸せだったのかもしれない。苦界の現実も知らず、恋しい人とは絶対に結ばれないということを知らなかった頃が。
 今は、頼みもしない現実が向こうからやってくる。俺を少し期待させたり、でもやっぱり絶望させながら。
 こんなことなら、柏木兄さんと出会った時に、耳を塞いで目を覆って、心を奪われまい、近づくまいとしておけばよかった。
 こんなに惚れ込んで仕舞う前に。
(……感傷的で、俺らしくない)
 そう言い聞かせて、進まない膳を持って立ち上がった。
 




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