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「夕凪」
遅番で出てきたばかりのところに突然声をかけられて、あからさまにびくりと肩が震える。しまった、動揺した。大きく息を吸って、呼吸を調えてから振り返る。
「はい、兄さん」
柏木兄さんは、いつものように表情ひとつ変えずに俺を見下ろしていた。今日はお酒の注文が多かったのか、着物はすでに大きく着崩して、のぞいた胸元がほのかに赤い。
……目に毒。
「菖蒲の間、そろそろお開きだよ」
兄さんはそう一言告げて、橙の羽織を翻し颯爽と歩いて行く。
男前すぎる背中を、いっそ憎らしく思いながらため息をした。
『稽古』をすっぽかしてから、十日が経っている。あれから、柏木兄さんからの声掛けはない。
……いや、忙しい人だから。今までだって、十日あいたことはある。
でも、あのすっぽかしのことを何も言われないことに俺は不安を感じていた。
廊下をお酒を持って小走りしていると、向かいから歩いてくる紅緑と目が合った。
煙管を吹かせて、蒼い着流しを懐手に悪ぶって歩いている。
それが様になっているように思えて、俺は他の兄御にするように礼儀としてひとつ頭を下げて通り過ぎようとした。
「夕凪」
肩を掴まれて、驚いてたたらを踏む。
「あ……っぶな」
「わりぃ」
すかさずに言われて、一瞬見つめる。
「……この間のも、わりぃ」
あの日以来、言葉を交わしていなかった。
気まずかったのもあるけれど、なんだか掘り起こしちゃいけない話のような気がしていたからだ。
「別に、謝ることないよ」
だって、全部、俺の始末が悪かっただけのことだ。
紅緑は、無様に情狂いの顔になっていた俺に注意しただけだし。根は優しい奴ということもわかってる。
ぷかり、と煙を浮かべてから、紅緑が言う。
「おまえさぁ、考えておいてくれよ」
「なにを?」
紅緑が、ぐっと眉根を寄せる。
「なにを、って……おまえ、そりゃーー」
かー……と喉の奥から声を絞り出しながら紅緑が頭を抱えてうなだれた。「そうだった……こいつ本気で天然だったわ……」
「なあ、用事終わったなら俺もう行っていい?」
御酒の膳を持ったままその場で地団駄する。
しっしっ、と犬でも追い払うみたいに紅緑に手で仰がれて、一瞬むっとしながらも菖蒲の間へ急ぐ。
紅緑がぼやく声を後ろに置いてきて、俺は、ふすまの前で吐息と一緒に吐き出してから息を吸う。
「お酒お持ちしました」
「いいよ、入って」
柏木兄さんの許可をもらって、座敷に入る。
着崩しが艶やかな、店一番の兄さんと。酒に頬を紅潮させてとろんとした目の、いかにも家柄の良さそうな女の人。初めて見るお客だ。
いつもと変わりのないこのきらびやかな座敷で、いつものように配膳を済ますと、俺はいつものように出ていこうとした。