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「兄御になりな」
 キン、と嫌な耳鳴りがした。
「えーー」
「座敷に上がりな。もう頃合いだよ」
 ついに来てしまった。
 この時が。
 一生来なければいいと思っていた、この時が。
「おまえが兄御になる前に、世の中の厳しさを教えておかないとね。今度みたいにお客を横取りされることなんかざらだ。用心しなよ」
 客を奪われたなんて……正直、どうでもよかった。
 さっきから俺の頭の中で、イヤダイヤダばかりが回っている。
「あ、兄さ……」
 柏木兄さんの決断を引っくり返そうと、声が縋ってしまう。「それは……この間の稽古に俺が行かなかったせいですか?」
「なにを馬鹿なこと」
 柏木兄さんが、ふ、と鼻で笑う。「女も抱いた。前評判も上々。これにて俺の教育係は御役御免だよ」
 思わず首を振る。
「無理……無理です、俺、まだ何にもわかってないし……!」
 必死に食い下がっている自分は、とても憐れに見えているかもしれない。
 兄さんの瞳に映り込む情けない自分が見えてしまうんじゃないかと本気で恐れて、俺は俯いた。
「俺はね、おまえより余程、おもてにも出るし噂も耳に入るんだ。おまえのそれは……もう傍付きの程度を超えてる。座敷に出る頃合いだよ」
 絡んだ兄さんの指が、俺の手の甲にぐっと爪を立てた。
「いた……っ」
 思わず引いた体を追って、兄さんが鼻先に触れるほどの距離に詰める。
 はっとして、その瞳の奥をうかがった。
 上等な香に、酔いそうになる。濡れてるように見える目は、きっと御酒のせいだ。
 切れ長の目を細めて、兄さんが赤い唇で囁く。
「……そうじゃないと、俺にさばかれて骨を抜かれちまうよ」
(え……)
 物騒な響きの中に、体が震えるような熱っぽさを感じて思わず目で縋る。
「だからその前に、兄御になって二番になりな」
 息をひそめて見つめていると、兄さんが片眉を上げて言う。
「一番は俺だよ。当たり前だろ」
 違う、聞き返したいのはそこじゃない。
 もっと、前ーー。
 ううん、とこのえさんが寝ぼけた声を出して、はっとする。
 兄さんが、スッと身体と手を引いた。絡んでいた指が離れていって、夢のようなすべてがお終いになった気がした。
「あれ……私寝てたの……?」
 どれくらい?と眉を寄せるこのえさんに、柏木兄さんは一瞬だよと微笑みながら答える。
 いつもの、店一番の兄さんの微笑み。その笑顔で、俺を振り向いて言った。
「締め、頼むね」
 その言葉が。
 今日は一際酷く、俺の胸をぐしゃぐしゃにした。
 




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