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「よおーー夕凪。兄御になるんだってな」
 一夜明けて、声をかけてきたのは、店で二番手の櫂兄さんだ。
 男らしい黒い短髪を、癖なのかひと掻き上げしてニッと笑う。
「手加減しねえぞ、おまえに負けたら俺は男前の看板降ろさなきゃならねえ」
 おきまりの辛口な憎まれ口も、人懐っこい笑顔で言われたら悪気には思わない。
 俺の再水揚げの話はあっという間に広がって、会う度、いろんな人におめでとう、やっとだな、と声をかけられる日々が続いた。
 そうこうしている内に、あぶらぜみがひぐらしになる。
 逝く夏を啜り泣く声に切なくなるのが恋心に似ている気がして、近頃、二重(ふたえ)に息苦しい。
 とはいえ、水揚げの日まで傍付きの身には変わりない。柏木兄さんのお手伝いは今まで通りにこなしている。
 でも、柏木兄さんの態度は今までと違う。
 最低限の業務連絡。目が合う時間も言葉を交わすことも少ない。
 もう、『稽古』のお声もかからない。
 事実上俺は、柏木兄さんの手を離れてしまったんだ……当然のことなんだけど。
 心にぽっかりと穴が開いたようで、毎日が虚ろに感じる。
 来てほしくない明日がやって来てしまう。
 存外に早く。今日も陽が落ちていく。
 一日の終わりが、俺の世界の始まりになる。
 そんな晩夏の空を庭先で見上げながら、秋の風を頬に感じて涙が出そうになった。
 あっという間に、過ぎ去ってしまったんだ。
 薪を抱えて風呂を沸かす日々も。御膳をもって廊下を走り回る日々も。
 ……柏木兄さんの背中を流すことも。次は此方の間だよ、とあの涼しい顔で声をかけられることも。
 すべてが、もう終わってしまう。
 柏木兄さんに爪を立てられた手の甲を、そっと撫でて思った。
 ……もっと。
 一生痕が残ってしまうぐらいに爪を立てて欲しかった。
 そのまま皮を剥いで、肉を裂いて。
 頭の先から、食らってもらえばよかった。
 稽古だなんて、甘やかさないで。
 使い捨てでも何でも、無茶苦茶に抱いてくれればよかったのにーー。
 泣いて縋ってでも、男のくせにだなんて面子も全て投げ打って、抱いて欲しいと強請ればよかった。
 きっとそこまでしてでさえも手に入らない人なのに。
 もう、全部が遅い。
 ふと、兄さんのあの言葉を思い返す。
 ーー俺にさばかれて骨を抜かれちまうよーー。
「どういう意味、だったんだろ……」
「おい、夕凪ー」
 ふと、裏口に顔を出した男衆の声がかかる。
「店開けるぞ、座敷に貼りつけよ。柏木の座敷見られるのもあと数日だぞ」
 勉強しろ、という男衆の気遣いの言葉が、今は胸を抉って仕方がなかった。



 9へつづく
 2017/10/15




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