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 後から聞いたけれど、その日はずいぶんな騒ぎだったらしい。
 下克上だ、あの柏木の上客の締めを兄御でもない夕凪が取った――。
 単に雪さんは傷を舐め合いたかっただけだ。俺と柏木兄さんが並んで居たなら、迷わず兄さんを選んでいるはず。
 間に合わせで座敷に上がっていい、と言われた時点で、柏木兄さんにはきっとこうなることもわかっていたと思う。
 だから、俺は少しも引け目に思ったりはしなかった。
 柏木兄さんは、みんなの噂話を気にするような人ではないし。こんなことで揺らぐような立場の人でもない。
 いつだって俺の手の届かないところにいて、すべてがわかっていて。
 俺がいつまでもこの恋心を捨てられないことだって、きっとわかってる――。
「今日は遅いけど上がるよ」
「っ」
 後ろを横切っていった兄さんの唇から、するりと言葉が落ちる。
 俺はそれを慌てて受け止めて、颯爽と廊下を歩いて行く背中を見送った。
 翻る着流し。どんなときでも、俺が憧れる店一番の風格を絶やさない人だ。
 初めて柏木兄さんのお部屋に行った日から、ひと月。今日で3度めだ。もちろん断る気はない。
 緊張するし最中はいたたまれないけれどでも……兄さんに触ってもらえる数少ない貴重な機会だから。
 それに、声をかけてくれる時はいつも、翌日俺が休みの日だって気がついた。
 兄さんは明日休みじゃないのに。……俺の体のことを優先してくれる。そういう気遣いにいちいち胸が切なくなってしまう。
 ……優しい。
 優しくてきれいで、粋で、他に代わりなんていない。
 あんな美しい人に……焦がれて焦がれて仕方ない人に、触ってもらえるなんて。
 食べ終わりの御膳を抱えたまま、胸が、とくとくと走りだしてしまう。
「……だめだ」
 そうだよ。
 これじゃあ、兄さんのお客と変わらないじゃないか。兄さんの手練手管に虜になってしまった人たちと一緒だ。
 初めての日、兄さんは言った。勘違うなよ、って。
『これから俺がおまえにすることは全部、教育だよ』
「……わかってる」
 俺は、ちゃんとわかってる。
 



 ギシ、と派手に床が軋んで、心臓が跳ねる。
 恥ずかしいやら緊張するやらの気持ちを持て余しながら、抜き足差し足柏木兄さんの部屋まで行く途中だ。
 柏木兄さんが入っている南舎は人気の兄御さんの部屋ばかりだから、夜更けともなればお客の相手で大体出払っているし、誰かに出会わすことはまずない。
(これは……逢引とは違うんだから)
 教育だ。
 柏木兄さんの、親心。
 それに、俺が甘えている。
 もしかしたらだって、兄さんの傍付きだった人の中には同じように手ほどきを受けた人もいるかもしれない。
 ――特別なことじゃない。
 そう何度も言い聞かせながら、微かに軋む階段を上がりかけた時だった。
「おい」
 ふいに声がかかって、飛び上がるほど驚いた。息を潜めて振り返ると、そこには。
「……紅緑!?」
 目が醒める深緑の着流しの肩に手ぬぐいを引っ掛けて訝しげな目で立っている。その若々しい色合いが、紅緑の若気を引き立てていた。
「こんな夜更けになにしてんだよ」
 ……そうだった。
 紅緑は、先月は店の3番手。人気の兄御なんだから南の舎にいて当たり前だ。
 俺が何も言えないでいると、紅緑が鼻を鳴らす。
「……逢引きか。柏木さんと」
「ち、違うよっ」
 さっき否定したばかりの言葉が紅緑の口から飛び出て、焦る。
 柏木兄さんの名誉のためにも、そこは絶対に否定しないといけない。
「部屋の……片付けを頼まれたから――」
「へえ。おまえは片付けしながらあんあん喘ぐクセがあるのか」
 ひやっと背筋が冷える。
 自分では必死に声を抑えていたつもりだったのに。
(あ。あの時……?)
 もしや二度めの時のことだろうか。柏木兄さんに急に激しく攻められて、思わず大きな声を出した瞬間があった。慌てて口を押さえたけれど、あの一瞬にまさか……紅緑に聞かれたんだろうか。
「夜更けに兄御の相手とはな。一文にもならねえことを――」
「ち、違う、これは、ちゃんとお客が取れるように手ほどきしてもらってるだけで……」
 紅緑が呆れたような目をした。「手ほどき……?」
「こ、紅緑だって……柏木さんの傍付きだったんなら……してもらったことあるんじゃ――」
「バカ言うなよ。んなことする兄御、聞いたことねえぞ。万が一にも手ほどきする必要があるなら、それは男衆の役割だろが」
 え、と間抜けた声が出た。
「おまえなあ……毎晩毎晩店に出てる兄御が、自分の傍付きの下の世話までやってられると思うのか。商売に障るだろが」
「あ――」
 それって。それって、じゃあ、どういうことだ?
 頭の中が渦巻いてきて、考えがまとまらない。
「おまえ、まだ柏木さんに座敷に上がらせてもらえないんだって? いつ兄御になるんだよ」
「そ、それは……俺がまだうまくできないから――」
「おいおい……客の取り方なんて、てめえで覚えるもんだ」
 ずい、と一歩近づいて来た紅緑が、俺に挑むように言った。「なにがまだうまくできないんだ? 柏木兄さんも忙しい人だ……俺が代わりに教えてやろうか」
 そう、口端で笑う。
 紅緑には、逆らえない強さみたいなものがあった。
 ずいぶん、差がついてしまったように思った。自分が柏木兄さんにうつつを抜かしている間に、紅緑はもう一丁前の人気兄御の風格を持ち始めている。
 いたたまれずに俺が踵を返すと、大股で俺を追い越した紅緑が、どん、と壁に手をついて俺の行く手を阻む。
 睨みつけると、紅緑が胡乱な目で言った。




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