「おまえ、本気になってんじゃねーのか」
あからさまに動揺して、しまった、と思った。
紅緑が、俺の行く手を阻んだまま懐手にすると、俺を眇めた目で見る。
「店の一番に惚れて、遣い下げで済みゃいいけど。おまえ、どんな顔してるか知ってんの」
「……なに。どんな、顔って」
ぐい、と顎を掴まれて持ち上げられた。
「――女の顔だよ」
「……え」
「男に誑かされて、何も彼も判断つかなくなっちまった情狂いの女の顔だ」
その冷たい声に、冷水を浴びたように肝が冷える。
言い返そうと思った。でも、俺には、思い当たるフシがあり過ぎた。
情狂いの、顔をしているなんて。
一番の恥。俺がこの世で一番、怖れていたこと。
柏木兄さんが好きで好きで変になりそうな心が、紅緑にもわかるほど、顔に出ていたなんて。
……柏木兄さんに、会いたくない。
こんな顔、見せたくない。
「……俺、戻る」
「あ?」
「どいてよ」
ぐいと押しのけようとしたら、逆に、紅緑の手に強引に顔を上向かせられた。
きつく眉根を寄せた紅緑が、俺を見下ろして言った。
「おまえ……なに泣いてんの」
「泣いてない……!」
涙なんて溢れてない。瞬きしたら転がってしまうだろうけど、泣いてなんか。
ぐい、と腕を引かれて、脚がもつれる。
「こ、うろく……っ?」
ぐんぐん廊下を進む長い脚の歩幅に合わせられない。
勢い良く襖を開けた部屋の中に押し込まれて、もたついていた脚がこけた。
のし、と腰に重さがかかる。紅緑が、のしかかってきていた。
「や、なに……っ」
無言で着物の袂を掴まれて、左右に引き開かれる。
肌蹴た胸にむしゃぶりつかれて、俺はあまりの展開に呼吸を忘れた。
「……や、や……っ、やだっ!」
紅緑の身体から、寝所の香が香る。
白粉の匂い。
風呂場でお背中を流す時、柏木兄さんからする香りと同じだ。
ふと、紅緑の手が止まる。俺が抵抗をやめたのを不審に思ったみたいだった。
「……おい、夕凪」
……こんなの、嫌だ。
けど、だって。
涙がどんどん、出てくるから。
「……わかってる……っ」
薄暗い中、紅緑が俺をじっと見下ろしてる。
「本気になっちゃダメなんて、わかってるよそんなこと……なんで紅緑に言われなきゃいけないんだよ……っ」
全部わかってる。頭ではわかってる。
柏木兄さんに言われたんだ。
おまえが売れる為なら、なんだって教えてやるよ、って。
俺がおまえにすることは全部、教育だよ、って。
気持ちなんか入っちゃいない、抱かれて傷つくのはてめえだけだ、って。
おまえと最後まではしない、わかってるだろ、って。
もう言われた。全部言われた。そんなに何度も、紅緑に言われなくたって。
こんな恋は幻で、嘘で。
この『教育』が終われば、その先には客をとり続ける日々が待っていて。
柏木兄さんの手元を離れて、知らない男に抱かれる日々。知らない女人を抱く日々。
親に売られた日にとうに始まっていたこの地獄で、柏木兄さんを見つけて。縋って。
恋の中で自分の人生の悲壮さから、ずっと目を逸らしてた。
頑張ればこんな世界でも明るく生きていけるかもしれないって。幻の夢に狂っていた。
その夢から醒めたんだ。
だから、なにもわからない。この先、どうしていいのか。
「もう……嫌だ――」
何も彼も。
俺に心をくれない、あの人が嫌だ。
あの人に身体を触られて、悦んでいた自分が嫌だ。
あの人の背中を懸命に流していた自分が嫌だ。
兄さんに近づきたくて認められたくて、必死になっていた自分が嫌だ……!
俺は、背を丸めて泣いていた。
紅緑は、のしかかっていた身体を退けて、涙が止まらなくなった俺の傍らに片膝を立てて座り込んだ。
……ああ、情けない。泣きじゃくるなんて。
のろりと起き上がると、畳に降った涙が音を立てる。
ふと肩を引かれて、強く抱き竦められる。
「俺にしろ」
紅緑の息が肩にかかって、目を見開いてしまう。「おまえとなら足抜けでもなんでもしてやる――おまえが焦がれる相手がいるなら、おまえとそいつを逃して……折檻受けたっていい」
そんな、切ない声で。俺に言う価値、ないのに。
「でも柏木さんは駄目だ」
あの人だけは駄目だ。
「わかってるんだろ」
紅緑に、あんまり静かに言われて。
俺は、しばらく泣いていた。
*
昨夜、部屋に行かなかった俺に、柏木兄さんは何も言わなかった。
いつもと変わらず、飄々とした美しさで店を闊歩している。
その夢のような姿を、俺は御膳を抱えたまま遠くから見ていた。
まるで、店に来たばかりの……柏木兄さんに遠くから憧れていた頃に戻ったみたいだった。
昨夜行けなかったことを謝る機会が掴めずにいる。
どんな理由を用意しても、なんだか虚しい。
大体、なにを謝るんだろう。
約束を破ったことを?
教育をしてもらえる機会を、ふいにしたことを?
柏木兄さんがそんなこと、いちいち気にするはずもない。
……俺は一体、何がしたいんだろう。
決して想いが届かない相手に懸想して。なにがしたいんだろう。
8へつづく
2017/07/13