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 ◇


「で、担当を替える件だけど」
 フロアの隅にある開放的な打ち合わせスペースで、席に着くなりいきなり切り出されて、俺は固まった。
「一応、俺の一つ上の先輩が引き受けてもいい、と――」
「ま、ままま!」
 慌てすぎて噛みまくった。「待ってください、担当替えって……なんで――」
 一瞬、伊東さんが眉を寄せる。それが妙に冷たい眼差しに思えて、舌が凍った。
「ご、ごめんなさい……俺やっぱり、何か失礼をしたんです、か……?」
「小嶌さんが言い出したんですよね」
「え?」
「俺が担当だともう書けないって――わんわん泣きやがって」
 背中が、すうっと寒くなる。
「すみません――お、覚えてないんです……」
「は」
「俺、あの日のこと、何も覚えてなくて――」
 バカすぎる……。やけ酒飲んで、伊東さんに何を言っちゃってたんだよ。
「じゃあ、書けないから担当替えてほしい、は酔った勢いの戯言ですか」
 伊東さんの口調が冷たい。凍りそう。
「す、すみません! でも、書けないのはほんとで――」
「あの夜は、バカだのアホだの散々罵ってくれたけど」
 言葉に詰まった。
 俺、そんな恐ろしいことを言ってたのか……!
「それはその……すみませんとしか――」
「酔ってはいても会話が成り立っていたので、前後不覚まではいってないと思ってたんですが」
「申し訳ありません……!」
「そういう適当なことしてるから、書けなくなるんじゃないですか」
 突き放すような言い方が、ぐさりと胸に刺さる。
 この人に見捨てられたら俺、ダメだ。伊東さんが担当だから書けてるのに。
 素人同然の俺が、基本から構成から、この人に一から教えてもらったんだ。
 なのに、酔って恩を仇で返すなんて。勝手に舞い上がって失恋して、ヤケになって仕事を失うどころか……伊東さんまで失うなんて――。
 じわ、と視界が滲んだ。
「ちょ……はあ……?」
 伊東さんが、抗議か疑問かわからない声をあげた。
 俺が、泣いてるせいだ。
「すみません……ほんとに、俺……すみません……っ」
 パタパタと打ち合わせデスクに涙が降って音をたてる。「……替わらないで下さい……っ」
 伊東さんが、腕組みする気配がする。
「俺、担当は、伊東さんがいいです……っ、伊東さんしか考えられないです、お願いします……!」
 小説家とその担当、という関係は、この先動かない。
 それがわかっているから、苦しい。
 伊東さんのことで一喜一憂して……酒飲んで記憶飛んでばかなことやっちゃうぐらい、この人のことが好きだけど。
 でも、もうそんなことはどうでもいいんだ。
 この人にみててほしい。
 俺を拾ってくれたこの人に。
 せめて、手をかけてもらった分を返せるくらいの作家になれるまで。
 袖で涙を拭った。いろんな涙が混じって嗚咽が止まらない。
 今更だけど、伊東さんが他に代わりがいない特別な人だってすごくわかってしまった。
 だから、胸が痛い。
「……じゃあ、なんで書けないんですか」
 怒りを落ち着かせた口調で伊東さんが言う。
「それは――」
 ……言えない。
 伊東さんに失恋したからだなんて、言えるわけない。
 黙った俺に一瞥くれて、まあいい、とひと区切りしてから伊東さんがため息する。
「この1週間は、酔った君の言動に振り回されてたってことか」
 ……顔を上げられない。説教を受ける子どもみたいに項垂れてた。
「それと」伊東さんが、一瞬黙って、何気ないことのように口にする。

「君は、俺を好きだとも言ってましたけど」

 頭を殴られるような衝撃ってほんとにあるんだ、って場違いに思ってしまった。
 呆然と顔を上げると、伊東さんが呆れた目で俺を見ながら続けた。
「香住先生にとられて悔しい、俺の方が先に出会ってたのに、って散々――」
「わあああっ」
 耐えられなくなって、立ち上がる。
「それも記憶にないんだな? 酔っぱらいの戯言ってことでいいんだな?」
 俺は、何も返答できずにふらふらと椅子に座り直した。
 ……どうせこのままじゃ、書けないままだ。
 どこか意識が朦朧としたまま、ぽつりと言った。

「……それは、ほんとです――」

 もうここまで来たら、何を言っても一緒だ。
 全部知られてるんだから、腹を割って話して……どうやったらまた書けるようになるか一緒に考えてもらおう……。
「伊東さんって、香住先生と……おつきあいしてるんですよね」
 上目で窺うと、伊東さんが不審げに眉を寄せていた。「それを知って……だから……書けなくなりました――」
 ……言ってしまったら、胸のつかえが消えていく。
 でも、ふと思い当たった。
 もしかして、もう終わりか。
 担当してる新人にこんなこと言われたら、担当替えるしかないって、なるよな。
 背中を寒いものが駆け抜けた。
 どうしよう。やだ。伊東さんと離れたくない。
 伊東さんが、前髪を掻きあげて盛大に息を吐き出す。
「俺、編集辞める気ないんですよ」
「……え?」
 ぐす、と鼻を啜った。瞬きしたら、目に溜まってた涙が落ちた。「……伊東さんに辞められたら困ります、俺」
 俺達の後ろを女性社員たちが横切って行く。
 伊東さんがその後姿を横目で見送って、小さく舌打ちした。
「こっち来て」
「え」
「いいから」
 腕を引かれて立ち上がると、出版社の中を足早に歩き出す。
 誰ともすれ違うことなく、無人のエレベーターに引っ張り込まれた。
 伊東さんは、親指で素早く地下1Fのボタンを押すと、エレベーターの壁に背を預けて天井を仰いで目を閉じた。
 ――なんだろ。どこ行くんだろ……。
 その横顔を盗み見ながら様子を窺っていると、伊東さんが目を開けて俺を見た。
 それは一瞬だったのに、俺の眼の奥にじりっと焦げついた。
 睨まれたわけじゃないけど、すごく強い感情を感じた。
 やっぱり……怒ってるんだ。
 取り返しのつかないことをしたんだ、俺。
 俺は、絶望的な気分で、階数のボタンを移動していくランプを所在なく見つめていた。





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