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 地下1階。廊下の明かりは非常灯だけだ。
 伊東さんに腕を取られて、振り回されるようについて行く。
「あ、あの、どこに――」
 廊下を2回曲がった奥の『資料室』と書かれた部屋。
 伊東さんは、その重そうなドアを軽々押し開けると、俺を引っ張りこんだ。
 閉まるドアの鈍い音を背中で聞きながら、わけがわからずに本の群れを見回していると、書棚の陰に引っ張り込まれた。
「わ……」
 背中を壁に押しつけられる。
 伊東さんの手が、俺の耳の横でドンっと音を立てた。
「っ」
 伊東さんと壁の間に挟まれて、これが噂の壁ドンか、なんてぼんやり思った。現実逃避してたんだと思う。
「……はー……」
 伊東さんは、目の前で項垂れるように大きなため息をして、「連れて来たはいいけど、どうするか……」と呟きながら、ガシガシと頭を掻いた。
「もう一度言っておくけど、俺は編集者を辞める気はないです」
「……それは、俺も嫌です……」
「キスしたんだよ、あの日」
 急に投げられた言葉に、え、と間抜けた声を出してしまった。
「キス……? あの、誰が――」
「俺と、君が」
 俺は、目を瞠(みは)ったまま固まった。……どんな反応をするのが正解かわからなくて、呼吸も満足にできない。
「小嶌くんは酔ってたけど、俺はシラフだった。意味わかるよね」
 なにがどうなって……キスなんてことになった?
 あー、記憶よ戻ってこい……!
「もしかして……俺、酔った勢いで無理やり伊東さんに――?」
 全身の血の気が引いて震えが起きる。
 どうしよう。どうやって謝ったらいいんだろう。
「すみ、ませ……っ」
「……すげえな、ほんとに記憶ないのか……」
 伊東さんが、ぽつりと呟いた声に、びくりと身体が震える。
「もっと言えば、寝る寸前デシタ」
「ね、る?」
「セックスするところだった」
 言われて、ばくばくっと心臓が鳴った。
「え、え……!?」
「何度も言うけど、俺はシラフだったんだよ。わかる? 君の無理やりじゃないってこと」
「あ……ぇ……」
 それって、どういうことだろう。展開に全然ついていけない。
 これがもし小説だったら、絶対伊東さんにダメ出しされてるパターンだ。読者がついてこられない、って。
「どうする」
「ど……するって……?」
 ドクンドクン、心臓がうるさい。
「足を突っ込んだら泥沼だ。……わかりますよね」
 急に敬語になられて、我に返る。
「わかり、ます――」
「君は作家だ。俺は、商品に手を出すわけにいかない。わかるよね?」
「は……い……、わかります……」
 暫くの間見つめられて、目が泳いだ。
 また、怒られるのかな。失礼なことをしたんだ、殴られてもおかしくない。
 俺は、伊東さんのどんな怒りも受け止めるつもりで、奥歯を噛み締めた。
 伊東さんが、重い重い沈黙の中でぽつりと言った。
「……秘密を抱える覚悟、ある?」
 その言葉の意味が、わからなかった。
 頭の中がぐちゃぐちゃで……ただ、痛くて溶けそうな響きだってことはわかる。
 顔を上げると、伊東さんの真剣な目と、目が合った。
「は、はい、俺、絶対誰にも言いません」
「そういうことを言ってるんじゃない」
 わけがわからなくて見つめ返していると、伊東さんが言った。
「リスクをとってでも、俺とつきあう気はあるのか、ってこと」
 頭が、真っ白になった。今度は、言葉まで忘れた。
 やっとのことで頭を回転させる。
「だ、だって、い……伊東さんは、香住先生と――」
「どこで聞いたのか知らないけど、そんな事実はない」
「は……」
 はー、と腹の底からため息して、両手で顔を覆う。
 全部、俺の勘違いだったんだ。絶対そうだって確信があったのに、違った。
 恋って、こんなに思考をおかしくしちゃうんだって、怖くなった。
「じゃあ俺……思い込みで先走って、めちゃくちゃなことを――」
 顔を覆った手首を掴まれて、顔を上げさせられる。
 伊東さんの眼差しは、どこか追い詰められたような危うさで、俺は息を呑んだ。
「っ、あの……」
「……今からキスするから」
「ぇ……」
 ゆっくりと壁に両手をつかれて、閉じ込められる。
 伊東さんが見下ろしてくる。
「……俺と一緒にドロドロになる気なら、受け入れて」
 呟くように落ちてきた声に、背中がズクリと甘く疼く。
「小嶌くんがなりたいようにします。君がなりたいような関係になる。俺は……編集者としても男としても、それくらいの覚悟はできてる。それぐらい、君に惚れ込んでる」
「伊東、さん――」
 嬉しいはずの言葉なのに、俺の胸には、不安が渦巻いていた。
 だってそんなの、伊東さんが言うように泥沼だ。
 バレたら最後、伊東さんの立場がなくなってしまう。
 言葉が出ないでいたら、伊東さんが俺の唇を蕩けそうな目で見つめてるのに気づいた。
 それだけで、溶けそう。

 ……ダメだよ。よく考えろ。
 一時の感情で、俺の勝手な欲望で決めちゃいけない。
 だって、伊東さんは俺の担当編集者だ。替えのきかない大事な人だ。
 伊東さんが言う惚れ込んでるっていうのは……それが本当なんだとすればそれは、小説家としての小嶌瑛太であって。
 ――俺、じゃないんだから。
 あくまで、小説を書く俺、なんだ。
 伊東さんも男じゃなくて、編集者だ。きっと、骨の髄まで。
 だから、俺が書けるようになる為なら、こんなことだってしてくれようとしてる。
 痛々しすぎるよ。そんなのダメだ。
 でも、伊東さんが見下ろしてくる。
 ……すごく、熱っぽい目。
 泣きたくなった。
 この目が、本当に俺を見てくれてるんだったら、どんなにいいかって。
 そんなのムリだってわかってるけど。
「……もう、いい?」
 囁かれたら、ダメになった。
 きっと恋人なら……こういう伊東さんがたくさん見られるんだろうな。
 いつもは編集者の顔をしてる伊東さんが、こういう目で見てくれる瞬間が。俺だけが見られる、伊東さんが。
 何も言えないでいたら、伊東さんが壁に肘をついた。
 距離が近くなって、勝手に涙が出そうになる。頬に吐息を感じて、背中から頭の先までゾクゾクする。
 形の良い唇を見つめて、思わず唇を噛んだ。
 ……この唇に触れる前に決めないと。
 どうしよう、どうしよう。考えないと。考えなきゃ――。
 溶けそうな頭を、回さなきゃ。
 俺のことだけじゃなくて、伊東さんのことを……。
 ――きれいな唇から、目が離せない。
 ……キスしたい。きっと、すごく気持ちイイ。
 だって、触れる前からこんなに、頭の芯が溶けそうなんだから。
「どう、しよ……俺……」
 迷った声が思わず出たら、泣きそうな声だった。「好きなのに……でも、どうしたらいいんだろ……っ」
「……色っぽい顔」
 囁かれて、くらっとする。
「そ、そういうのやめてください……今、俺、考えてるのに……考え、なきゃ……っ」
 膝が震えてくる。壁にがりっと爪を立てたら、ジン、と甘さが肩に抜けた。
「かわいい声出されると、キツイんだけど」
 伊東さんの気配が、少し興奮してるみたいに感じる。
 埃っぽい資料室。
 爽やかな香り。
 熱い気配。
 唇。
 ……したい。伊東さんと、キスが。
 薄く唇を開ける。
 伊東さんが、一瞬目を細めて、ゆっくりと唇を寄せてくる。
「……するよ?」
 唇に吐息がかかって、ぎゅっと目をつむる。

 気がついたら。
 俺の手は、伊東さんの唇を塞いで止めていた。

 緊張で指が震えてる。息が上がって、吐息がわなないた。
 伊東さんが、熱っぽい目で俺を見下ろしている。
 その視線に耐えながら、俺は、なんとか言葉にした。
「すごく……シて、欲しいん……ですけど……」
 ――あなたが、欲しいんですけど。
「それは……っ、ダメな気が、して――」
 ……伊東さんを、泥沼に引っ張り込むわけにいかないんだよ。
 こんなに才能溢れる人を、俺みたいな、実るかどうかもわからない作家のせいで潰すわけにいかないんだ。
「い、伊東さんは……っ、出版界に必要な人です、だから、俺なんかが……だから、ダメです――」
 震える息を吐き出してかろうじて伝えたら、伊東さんが目を細めた。
 唇に触れてる俺の指先を食むように、唇を動かす。
「……ひ……っ」
 いつもの数倍敏感になってるんじゃないかっていう指に、いやらしい動きを感じて声が漏れる。
 思わず、こくり、と喉が鳴った。
 伊東さんは、最後に一度柔らかく食んでから俺の指先を離すと、俺の耳元に唇を寄せた。
「……わかりました」
「ン……っ」
 吹きこむように呟かれて、腰が蕩けた。膝が崩れて、ずるずると壁を滑る。
 伊東さんが、しばらく見下ろしてくる気配。ものの数秒が、永遠のように感じた。
「――行きましょうか」
 差し出された手をそろそろと握ると、引かれて立たされた。
 腰を抱くように抱きとめられて、心臓が跳ねる。
 見上げると、伊東さんはいつもの……編集者の顔だった。すぐに離れていった手が、寂しい。
「……あの、俺――」
 躊躇う言葉を促すように、伊東さんの視線が降ってくる。「好きでいるのは……いいんですよね……?」
 確認するように言うと、伊東さんが小さく吐息して言った。
「煽ってる自覚ある?」
 呆れた声は、あくまで甘い。
 俺が言葉を詰まらせていると、伊東さんがもう一つため息して言った。
「心の中までは、誰にも見えないですよ」
 静かな言葉の奥の激情をぶつけられて、背筋が震えた。

 
 伊東さんに腕をとられて、資料室を出る。
 暗い廊下を引き返してエレベーターに乗り込むと、日常に戻ったようでほっとしたような……虚しいような、複雑な気持ちになる。
 微妙な距離を置いて壁に背中を預けている伊東さんの横顔を見る。
 すると、伊東さんもこっちを見ていた。う、と息が詰まる。
「……小嶌くん」
「ぅ、あ、はい」
「そういう目で、見ないこと」
 横目で言われて、かっと頬が熱くなる。
 俺、どんな目してた……?
 打ち合わせスペースのある階に着くと、伊東さんがジャケットの襟を直しながら言う。
「担当は、僕が継続するということで大丈夫ですか」
「はい……お願いできれば、したいです」
「そういうことなら、勿論、僕は君を担当するつもりです」
 そう言った、伊東さんの目。
 資料室の熱が残ってるように思えたのは、気のせいかな。
「書けそうですか」
「は、い……、書きます。書けます、きっと」
 少しの間を置いて、伊東さんが言う。
「……君といい作品ができれば、それが一番ですよ」

 それが救いの言葉なのか、絶望の言葉なのか。
 今の俺には、わからなかった。



 おわり
 2016/02/29


 『墜落のガブリエル』をキリ番用にしてたんですが、これもなかなか終わらなそうだなーということで短編をこさえました。NO.450000キリ番、なり様で、『恋愛に無関心な人物(攻でも受でも)が恋をするお話(切なめ)』でした。なり様、改めまして素敵リクエストありがとうございました。

 久賀リョウ






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