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『もう限界? これ以上出せないの』
「……そこをいじったら……壊れちゃうと、思います……」
『全然ダメですね』
 電話の向こうの冷たい声に、その場にがくっと膝を折った。
『小嶌(こしま)くん、前回俺が言ったこと聞いてた?』
「……はい」
『だったらこういうのが出てくるのはおかしいですよ』
「……はい……」
 どんどん声が小さくなる。
 通算4作目のボツだ。
 スラスラ続く容赦のない言葉が、俺の心をズッタズタにする。
 とどめに、ふー、と大きなため息をされてその場に倒れたくなった。
『ところで。もうひとつの方だけど』
「は、い……」
 今ボツになったやつより、もっと自信のないやつだ。いつものダメ出しに備えて、奥歯を噛みしめる。
 ……どうぞ。心を粉々にされる準備はできてます。
『これで行きましょう』
「すみませ――……え?」
『女性視点の恋愛小説。面白そうだからこっちで書いてみて。月末の掲載会議までにいけますよね』
 それからどんな打ち合わせをしたのか、どうやって電話を切ったのか覚えてない。
 ――期待してます。
 その言葉だけ覚えてる。
 担当についてもらって以来、はじめて言われた"期待してます"。
「昇天しそ……」
 背中からベッドに倒れて、小一時間悶えた。
 ……たった一言で、こんなに幸せな気持ちになるなんて。
 俺は、担当編集者である伊東(いとう)さんの手で、すっかりマゾな体質に開発されてしまったみたいだ。





ヴァニラセンテンス








 ◇


「できましたか」
 声をかけられて、はっとして顔を上げる。
 気だるそうに戸口に立っているのは、俺の担当編集者、伊東さんだ。
 目の下に思いっきり隈が浮いている。目つきも危うい。
 俺を一瞥すると、前の席の椅子を引いてどさっと座る。
「す、すみません……あと少しでできるんで」
 伊東さんは、ひとつ息を吐くと頭を支えるようにテーブルに手をついて項垂れた。

 ここは、大手出版社、華文社(はなぶんしゃ)の打ち合わせ室。
 俺――小嶌瑛太(こしま・えいた)は、ど新人の小説家で、2週間後の掲載会議用に原稿を書いている。
 目の前で項垂れてる伊東さんは入社4年めの若手編集者で、半年前、担当してる作家が文芸では異例の100万部のヒットを飛ばして以来注目されてる。入社したての頃は「顔採用」って、先輩にからかわれていたらしい。その反動か、バリバリ仕事をやって大ヒットにこぎつけたんだ。
 その一方で俺は……これから売れるとも消えるともわからない、伊東さんが担当するその他大勢の中の一人。

「伊東さん、校了だったんですか……?」
 『校了』は、雑誌の原稿を印刷所に入れる締め切りのことだ。これに間に合わないと、雑誌は出ない。
 大抵の編集者は、この時期は徹夜が当たり前で、校了明けには屍になる。
「……俺のことは気にしないで、君は原稿終わらせて」
 眠気と疲れの混じった声が、地の底から響いてくる。
「は、い……」
 小さく言って、自分のノートブックの画面に視線を戻した。
 伊東さんとの出会いを語るのは、一行で終わる。
 新人賞に応募した俺の小説を読んで電話をくれたんだ。
 他社で散々に言われた作品だったけど、「見る目のない奴の言葉は忘れろ」って言ってくれた。
 その一言にすごく男気を感じて、俺の方が伊東さんに惚れ込んだ。
 小説家になりたい。俺の作品を気に入ってくれた、伊東さんの元で、って。
 ――気に入ってくれた……はずなんだけど。
「小嶌くん、終わったら起こしてくれる」
「は、はい」
 扱いは、こんな感じ。
 スイッチが切れたように机に突っ伏した伊東さんの頭をちらと見る。
 ぼっさぼさ……ちょっと無精髭も伸びてる。
 伊東さんは、普段は爽やかさが服着て歩いてるような人なんだけど、今はくたびれた中間管理職って感じ。
 よっぽど校了って大変なんだな……。
 シンとした部屋に、俺がキーを叩く音だけ響く。
(うーん……)
 今、主人公とその片想いの相手がいい雰囲気の場面なんだけど……どう色気を出したらいいかな……。
 女目線で書く恋愛小説って、かなり難しい。
 女の人は、男のどういうところにグッとくるんだろう。
 ふと、伊東さんの血管の浮いた腕に目がいった。
 どうせ寝てるんだ。参考にしよう。
 噂じゃあモテてるみたいだし……この人にはきっと女性をときめかせる何かがあるんだ。
 微かな寝息。広い背中が呼吸に上下してる。……子どもみたいだ。いつも厳しい人が、無防備に寝てるのを見るのって変な気分かも。
(……おいおい、違うって)
 女性がときめく、男っぽい部分を探してるんだからさ。
 細身の俺と較べると伊東さんは背も高いし、筋肉や筋の感じも男っぽい。
 投げ出されてる手とか……綺麗だよな。
 打ち合わせで会う度、いつも思ってた。俺よりも大きくて、指も長い。忙しいのに爪も切りそろえられてて感心する。
 指輪してないけど、彼女いないのかな。
 伊東さんは、どんな風に女の子と手を繋ぐんだろ。
 ふと、イメージが湧いてきてキーボードに指を走らせる。
『修の長い指が、私の指に絡まる。その熱っぽい目を見たら、鼓動が速くなって』――。
 ……書いてるこっちが恥ずかしくなってきた。俺の頭の中で、完全に、修が伊東さんのイメージになっちゃってるもんだから。
 伊東さんって……エッチの時とかどんな風にするのかな?
 いつも涼しい顔だから、がっついてるとことか全然想像できない。起こして直接きくわけにもいかないし。
 伊東さんが女の子と仲良くしてるところ……。
 ふと、もやっとしたものが胸に湧いた。
 考えたくない、かも。……なんでだろ?
「……手が止まってる」
「うわっ!」
 顔を突っ伏したままの体勢で、ぼそ、と言われて、思わず声を上げる。
「……声でけー……」
「す、すみません、起きてたんですか」
「できたの」
「まだです、すみません」
「ラブシーンは色っぽくして。……いやらしくするなよ、君の売りは、香る色気だから」
「は……はい……」
 声は寝ぼけてんのに、しっかり編集者の仕事をしているのがすごい。
 ものの5分と経たない内に、また、すーすー寝息が聞こえ始めた。
 ……原稿やってる作家の前で寝る編集者なんか聞いたことないんだけど。伊東さんって、他の作家にもこうなのかなあ。
 でも、5分で寝落ちするくらい疲れてるのに、こうやって時間を割いてくれてるのはすごく嬉しい。
 作家と編集って、独特の関係だよなってつくづく思う。
 一蓮托生なのに、ビジネスで。個人的なようでオフィシャル。
 他人には絶対見せない頭の中の欲望や妄想を吐き出して、密室で担当編集者に隅から隅まで全部見られる。
 君のココ、こう感じた、とか。これはイイけどここはヨくない――じゃあ、こう動いたらダメ? ここ気持ちイイ? まだヨくならない?
 ……っていうのを延々繰り返す。
 自分の中を引っ掻き回されてグチャグチャにされて泣かされながら、お互いの快感を探す作業――それってまるで、セックスだ。
 あ……そうか。この場面、2人は触れ合わない方がいいのかも。
 触れそうで触れ合わない……そうすれば、エロティックで切なくなるかもしれない。
 俺と、伊東さんみたいに。


 伊東さんが来てから、15分で原稿が書き上がった。
 パソコンのデジタル時計は、もう22時過ぎてる。
 伊東さんを起こして見てもらわないといけないんだけど――寝た鬼を起こすようでコワイ。
「……できたのか」
 俯せたままの伊東さんが急に言って、飛び上がるほど驚いた。
「いっ!」
 ガンっ、としたたか机に膝を打ち付けて悶える。
「って……」
 俺が机にぶつかった衝撃が、寝てた伊東さんにも伝わったらしい。
 不機嫌そうに顔を起こすと、胸元に入れてあった眼鏡を取り出してかけてる。
「あれ、メガネ……?」
「ブルーライト」
 あ、JINSのやつか――眼鏡をかけるとインテリっぽくなるなあ。
 伊東さんは、ぼさついてた髪を無造作に掻き上げて、俺のパソコンを自分の方へ向けた。
「読むよ。いい?」
「あ、は、はい」
 有無を言わさない口調で一応形だけの断りを入れて、伊東さんが俺の小説に目を通し始める。
 ……この瞬間が、いつも一番恥ずかしい。
 出したばかりの丸裸の自分を見られるからだ。
 伊東さんの目は、いつも真剣だから余計恥ずかしい。態度はこんなんだけど、仕事には一途な人なんだ。
 一読しただけで、俺が自信のない箇所をずばずば言い当てるし。アドバイスも、ごもっともなものばかり。
 大手出版社の編集者ならチャラつこうと思えばいくらでもチャラつけるのに、そういう素振りがないところも信頼してる。
 俺は、伊東さんに頭の中身を読んでもらってる間、何もない部屋の天井やドアをぼーっと眺めていた。
「……読みました」
 う……。
 渋い表情。嫌な予感がして身構える。
「ダメ……でしたか?」
「……るかもな」
 眠たげな声をうまく拾えなくて、顔を寄せる。
「恋愛ものは、小嶌くんに合ってる」
「へ?」
「思い切って女視点にしたのはよかった。男が書いた割に妙なお色気もないし……一応女性編集者にも見てもらって、違和感ないようだったらこれで推してみるか――」
 すらすらっと伊東さんの口から出てきた言葉に、俺は呆気にとられた。
 ……もしかして褒められてる?
 いつもは、こんなん売り物にできるかーとか、イチから構成勉強しなおせ、とか斬って捨てられるのに。
 こんな、あっさりOK出るなんて――。
「あの……」
「なに」
「校了でお疲れだったり……します?」
「そりゃな」
 伊東さんが、ふ、と小さく笑う。「恋愛小説の良さがわからない俺でさえ、面白いと思いましたよ」
 思わず、凝視。
 だって、今、伊東さんが、笑……っ。
「ここしばらくで、一番よかった」
 じん、と胸の奥が熱くなる。「プラトニックで終わったのもいい。出したくても手が出せない男側の気持ちもわかる。男でも読めば恋愛したくなると思いますよ」
 思わず、ほーっ、と息を吐き出した。
「伊東さんでも、恋愛したくなりましたか?」
「ええ」
 やばい。すっごい嬉しい。
 いつもヘタクソヘタクソ言われるけど、相手をやっと気持ち悦くさせられたような……その時の充実感ってきっとこんな感じだ。
「で、細かいところの修正だけど――」
 俺は、慌ててメモ帳を取り出して、受け身一方だった伊東さんのマシンガン攻勢を書き止め始めた。





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