[]




 ◇


 エレベータに乗ると、伊東さんが1Fのボタンを押した。
 目線の高さにある伊東さんの肩を見ながら、話しかける。
「……お忙しいところありがとうございました」
「いい作品になれば、それが一番です」
 ぎくっとした。
 そう、なんだよ。
 伊東さんは、俺に時間を割いてるんじゃない。俺の"小説"に、時間を割いてる。
 俺に小説を書くという能力がなかったら、伊東さんとの間を繋ぐものは何もないんだ。
 14階からあっという間に1階につく。
「修正終わったらデータください。どれくらいでできますか」
「3日もあれば――」
「じゃあ、データ送ったら携帯にメールして」
 時々混じる砕けた口調と、整った敬語のアンマッチはいつものことで、俺はいつも立ち位置を振り回される。
 俺、年下なんだし……タメ口でも別に構わないのに。
 新人の年下相手にでも敬語を使おうというのは、伊東さんのこだわりなんだろうか。
 エレベーターホールを出て、照明が落ちた無人のロビーに出ると、壁のデジタル時計は23時を回っていた。
 ここで今日はお別れかあ……。
 好きな相手と離れる時の甘い寂しさは小説の中にも何度も書いたけど……その度に伊東さんのことを思い浮かべていた。
 いくら思い浮かべる女の子が居ないとしたって、この傾向はもしかしなくても結構マズイ。
 ロビーの床を一歩鳴らすと、伊東さんの長い足がすっと横に並んで歩き出した。
 不思議そうな俺の視線に気がついたのか、伊東さんがやれやれ、といった感じで目を細める。
「俺も帰るんですよ。誰かさんの原稿につきあって遅くなったので」
「ああ……」
 確かに、伊東さんは肩に黒いリュックをかけてる。今気づいた。
「本当は9時には上がれる予定だったんですけどね」
「うわあ……すみません……」
 嫌味たっぷりの伊東さんは、本当に俺の声を小さくするのがうまい。
 外に出ると、春とはいえまだ風は肌寒い。
 伊東さんは、ビルに面した大通りで足を止めて、行き交う車に目を配っている。
 つられるように隣に立つと、車の波に目を泳がせたまま伊東さんが言った。
「家、世田谷でしたよね」
「あ、はい」
「通り道なんで一緒にタクシー乗りますか」
 ぎゅん、と胸が絞られる。
 一緒に、乗る?
 さすがにそれは、なんか照れるぞ。
 作家って、タクシーに乗せてもらうのとか普通なのかな。
 俺は、言葉面だけ遠慮して、伊東さんがつかまえたタクシーの後部座席にそそくさと乗り込んだ。


「今朝、徹夜だったんですか?」
「まあ。その後もなんだかんだ業務が立て込んで」
 車内での会話は、距離が近い感じがするのはなんでだろう。
 伊東さんの抑えた声のトーンとかが……そわそわする。
「……伊東さんが、珍しいですね」
「なにが?」
「え、だって……“伊東編集は校了前に一人だけ徹夜なしで帰る”んですよね」
「誰が言ってたのそんなこと」
 伊東さんが、呆れたように続ける。「さては、近藤辺りが作家に吹聴して回ってるな……」
「俺が聞いたのは受付のお姉さんからですよ」
「は? いつの間に受付嬢と仲良くなったんですか」
「や、仲良くなってないですよ。出版社の近くのスタバで会ったので……挨拶がてら伊東さんの話を少し」
 俺は、怪訝そうな伊東さんを横目に見ながら続けた。「ついでに言うと……誘ってもなかなか合コンに来てくれないんです、って。今度は来て下さいね、って伝えてくれって言われました」
「そんなことまで話したんですか。誰です」
「言えませんよ! 怒るでしょ、その人のこと」
「怒りません、注意するだけです。君は大事な作家なんですから余計なことで煩わせたくない」
 一瞬、嬉しさが湧いたところで、すぐに寂しさが頭を覆った。
 駆け出しの作家でもこうやって大事にしてくれるんだな。……あくまで、会社の商品として、だけど。
「合コンなんて行ってる暇ないですよ」
「あ、それも聞いたことあります。それこそ近藤さんが冗談で言ってましたよ、あいつは働くアンドロイドだって」
「……小嶌くんは俺の噂話をよく聞くんですね」
 伊東さんがドアに頬杖つきながら、わざとらしい敬語で言った。
 夜のタクシーって不思議だ。普段は、絶対こんな口きけないのに。走る内に、作家とか編集者とかいう関係性の緊張感を後ろに置いてきてしまうみたいだ。
 伊東さんが、眠そうな目でこっちを見てる。
 ……なんだろう。何か言いたそうだけど。
 俺が首を傾げると、伊東さんは頬杖ついたまま呟いた。
「……俺も、君の噂話聞いたことあるよ」
「俺の、ですか?」
「君の受賞作を掲載した後にね。おまえのところに伸びそうな新人がいるって編集部で話題になってるって……他誌の知り合いの編集から言われましたよ。俺の担当作家だってこと知らなかったらしいです」
「そ、そうなんですか……」
 伊東さんの言葉に、『俺のもの』みたいなニュアンスを感じて気恥ずかしい。
 勿論、作家として、だろうけど。
 盗み見ると、伊東さんの口元が微笑んでるように見える。
 吸い寄せられるように見つめていると、ふいに伊東さんの横目と合った。
 眠気のせいなのか……その気だるさが――ぞくぞくする。
 なんとなく見つめ合っちゃったもんだから、頬が熱くなってきて、運転士の背中に目が泳ぐ。
 な、何か言わないといけないよな。見つめてたこと、誤魔化さないと。
「あ、の」
「ん?」
「なんで俺を拾って……担当についてくれたんですか」
 思わず口をついて出た言葉は、ずっと訊いてみたくて訊けなかったことだ。
 伊東さんは、間髪入れずに言い放った。
「好みだったから」
「え」
「君の作品を好きになったんだよ。それだけ」
「そ……うですか……」
 好、き……。いや、小説の話だよ。
 わかってるけど、顔熱い。頭がくらくらする。
 この狭い空間でこの雰囲気で、そんなこと言われると。
 ……これ、まずいなあ。
 作品と、自分との境がわからなくなってきた。
 車内に広がってしまいそうな、俺の浮ついた気配を打ち消さなきゃ。
「それでその……無徹の伊東さんが、今回はなぜ徹夜を?」
「無徹って……面白いなそれ」
 伊東さんが小さく笑う。「小嶌くんの言葉のセンスは、新人賞の読んだ時にわかってたけど……毒がなくて気持ちがいいよね」
「気持ち、いい?」
「そう。言葉を読む時は、頭の中で音読するだろ」
「はい」
「君の文章は凝った言い回しもなくて普通だけど、音の抜け方が異様に気持ちいい。快感に近いね」
「それ、褒めてますか……?」
「最高の褒め言葉のつもりだけど」
 そっか……俺の小説、伊東さんにそんな風に思われてたんだ。
 今日は、いつになく褒めてくれるから、いちいち心臓が苦しい。
「連載作家の原稿が押したので、今朝までつきあってたんですよ」
「ちなみにどなたの……?」
「香住(かすみ)先生」
 瞬間。
 もやっと……淀みが胸に広がった。
 香住先生は、伊東さんが担当してる、例の100万部作家さんだ。
 業界でも有名な……超美人小説家。
 半年ほど前に、打ち合わせスペースでニアミスしたことがある。
 伊東さんと香住先生のツーショットは、迫力の一言だった。ここは出版社なのか?っていうような、派手な空間になってて。
 その後、入れ替わりに俺と打ち合わせしなきゃいけない伊東さんに申し訳なくなった。
 それを思い出して、一気に現実に引き戻される。
「そう、なんですか……」
 俺の暗い声が車内に漂って、静寂が訪れた。
 沈黙が続くので視線を上げると、伊東さんが胡乱(うろん)な目で俺を見ていた。
「……あのさ」
「は、はい」
「小嶌くんって、香住先生のファンなの?」
「え」
 あ……。
 その、警戒するような目。
「作家同士のつきあいに口を出す筋合いじゃないけど」ふ、とひとつ息をして、伊東さんが続けた。「ちょっかい出したら、ダメですよ」
 ……俺には、伊東さんがこの瞬間、香住先生を守る騎士に見えた。
 ピンときたんだ。
 伊東さんって……香住先生と――。
 確かめはできなかったけど、沈黙した車内の空気がすべてを物語っていた。
 それと同時に、血の気がひく。重い重い……鉛を飲み込んだみたいだった。






[]







- ナノ -