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 ◇


「あの……俺、どうしてここに――」
 たぶん俺、真っ青な顔してる。
 体の震えが止まらないからだ。
 俺は、出社の準備をする伊東さんの背中を血の気が引く思いで見ていた。
「桧田くんから連絡があった」
 伊東さんが一瞬止まって天井を仰ぐ。すう、と鼻を鳴らして言った。「……酒臭い」
「す、す、すみませんでしたー!」
 俺は、青いシーツのベッドの上でジャンピング土下座した。
 うん……?
 ベッドの上?
 もしかして俺……伊東さんのベッドを奪って寝てしまったのか……!?
 ああ、あ……頭が、上げられない。
 っていうか、頭ガンガンする……。
「ほんと……すみません……ほんとに――」
「前後不覚になるような酒の飲み方するな」
「はい……」
 ひたすら小さくなっていたら、ため息が聞こえた。
 ばさっと頭に何かが投げられる。手にとってみたら、バスタオルだった。
「シャワー使いたかったら使え。オートロックだから出れば鍵は閉まる。朝飯は食パンがあるから焼いて食べろ」
 矢継ぎ早に言い残して、じゃあな、と伊東さんが出て行こうとする。
「あ、あの」
「それと、例の件。考えておくから」
 尋ね返す間もなく伊東さんが慌ただしく出て行く。
「……なんだろ、例の件、って――」
 俺はひとり残されて、頭がぐわんぐわんしていた。
 タオルからいい匂いがする。
 ここが……伊東さんの部屋か。
 ローテーブルにはノートパソコンや書類や本が雑然と積み上がっているけど、それ以外は片付いてる。
 家具はグレーが多くて、飾り気がなくて冷たい印象。伊東さんらしい部屋だった。
 担当編集の部屋に入る作家って……いないんじゃないかな。
 やばい、ドキドキしてきた。
 ベッドから起きて、バスルームを目指す。
 2つめに開けたドアがバスルームのドアだった。シャワーを使おうか迷いながらリビングに戻ると、テーブルの上の食パンの袋が目に入った。それと同時に、盛大に腹が鳴る。
「……ところで俺、どうしてここに居るんだろ」
 理都と飲みに行ったのは覚えてる。それ以外の記憶が、ない。
 ぼんやりと断片的にはあるけど、そこに伊東さんの影はなかった。
「何かやらかしてないよな……」
 吐き散らかすとか。暴言吐くとか。
 前者の痕跡はないけど、後者はわからない。
 どことなく……伊東さん、機嫌悪そうだったし。
 考えるとまた頭が痛んだ。二度とヤケ酒はしない。
 ……俺、伊東さんに甘えすぎだよな。まずバスルーム借りるとかありえないだろ、厚かましい。朝食だって、自分で調達して食べろよ、ばかっ。
 昨夜の酔っ払った自分に腹が立って腹が立って。
 ……伊東さんの部屋にいるんだ、とか言って舞い上がりかかってる自分に、腹が立って腹が立って。
 だってこの部屋。
 ――香住先生は、来てるかもしれないじゃないか。
 俺は、寝てたせいでしわしわになったシャツを手で伸ばしながら、鏡の前で申し訳程度に髪を整える。
 余計なものを見ない内に。
 伊東さんの部屋で、香住先生の気配を感じ取ってしまう前に、その場を後にした。




 ◇
 

 連絡をとらなくなって、1週間。
 言っていた締め切りをぶっちぎってるけど、小説はまだできてない。
 そろそろ進行度の報告をしなきゃいけないと思う。
 でも、俺はスマホを睨んだままでいた。
「いつから……こんなことになってたんだろ――」
 俺、いつから……伊東さんのこと、そういう風に見るようになってた?
 だって、男の人なのに。
「どうしてだろ……」
 最初の頃は……厳しい人だって思って、会う時は必ず緊張してた。またきついこと言われるんじゃないかって身構えて。伊東さんが打ち合わせに現れるといつも、用意してた言葉が消し飛んで頭が真っ白になって……受け答えだけで精一杯になる。
 じゃあ、その前は?
 会った時のことは。初めて電話もらった時のことは。
 今でも、はっきりすぎるくらい覚えてる。きっと何度も思い出したせいだ。
 声を聞いた瞬間に、会った瞬間に、特別な人だって思った。
 だから、ダメ出しにもいちいち傷ついて、辛くて、それでも必死になって小説を書いてきた。
 だって、書かなきゃ会えないから。
 伊東さんが俺に会ってくれる理由は、俺が、小説家になろうとしてるからだから。
 伊東さんにとって俺は、小説を書くから価値があるんだ。
 ……だとしたら、これでいいのか?
 こんな上の空な、曖昧な気持ちのままで……色ボケしたままでいいのか?
 小説の世界に、身を埋めるはずだったんじゃないのか。
 伊東さんを好きだとか失恋したとか、伊東さんが超美人作家とできてるんだとかそんなことどうでもよく……はないけど、でも、こんな風にしょぼくれてていいのか?
 ……そうだよ。
 叶わないとわかってる恋が、たとえ叶わなくたって。
 せめて、すごい小説家になって、これまで真摯に俺につきあってくれたことへのお返しをするしかないんじゃないのか?
「……やることやれよ、俺……!」
 そう叱咤してスマホを手に取る。メールを開いて、用件を打ち込んで――。「送信……!」
 送った。
 送ってしまった。
 冒頭謝り倒して、最後に打ち合わせの催促をした。
 と、いきなり携帯が鳴ってビビる。
「……なんだ、理都だ……」
 電話に出ると、理都は開口一番『あの後どうなった?』なんて気楽な質問を飛ばしてきた。
「どうもこうも……」
『何かあったの?』
「何か、って……伊東さんの家に泊まらせてもらったんだよ」
『えー!!』
 理都の絶叫が耳を刺す。
「えーっ、じゃないっ。理都が伊東さんを呼んだんだろっ」
『伊東さんに瑛太の家を知ってるかどうか尋ねただけだよ。そうしたらタクシーで迎えに来て……瑛太を家まで送るって言われたから頼んだんだけど』
「うそ」
『嘘じゃねえよ、なんで伊東さん家に泊まってんだよー!』
 理都の笑い声が、右から左へ抜けた。
「……なんで泊まったんだろ、俺」
『その辺の事実関係、ちゃんときいたら?』
「そうだよな……酔ってて全然記憶ないし……」
 と、電話の向こうの理都が黙った。
「ん? もしもし? 理都?」
『くだ巻きまくってたの全然覚えてないのか』
「クダ?」
『あ……イヤな予感してきた。せめて俺の家に連れて行ってやればよかったかも』
「ちょ、ちょっと待って。俺、なんのクダ巻いてた!?」
『伊東のばかやろー、とか、あほーとか……担当作家に手ぇ出してんじゃねえよーとか』
 さあっ、と血の気が引く。
「……やばい。俺、酔った勢いでなんかやらかしたかな!?」
『だから知らないって』
 理都が、他人事のように面白がって笑っている。
「笑い事じゃ――」
 と、プププ、とキャッチが鳴った。
「あ、やばい、キャッチだ」
『そ、じゃあ切るな』
「うん……あ」
 キャッチの相手が――「伊東さんだ」
『グッドラック』
「あ、待……」
 ぶつ、と理都との通話が切れて、残された俺は伊東さんと1対1になった。
 恐る恐る電話に出る。
「……はい、小嶌です」
『伊東です。おつかれさまです』
「お、おつかれさまです……」
『打ち合わせしましょうか。急ですが、今日の夕方16時か明日。ご都合いかがですか』
「え、と今日大丈夫です」
『じゃあ16時に来てもらえる』
 な、なんか普通だ、伊東さん。怒ってないんだろうか。
「あ、あの!」
『はい』
「その……」
 訊け! 訊くんだ!
 あー……ムリ。訊けない。
「女性編集さんの反応って……どうでした?」
 ……真面目でビビリな自分を恨む。
 一瞬黙って、伊東さんが言った。
『良かったですよ。男性が女性視点で恋愛を書くというのは企画としては面白いと。ただ、実際の女性の感覚に比べてピュア過ぎるとは言ってましたが』
 思わず苦笑いした。
 伊東さんが続ける。『修正がうまくいけば会議に出しましょう。ただ、修正が進んでいないとのことなので話し合いましょうか』
「は、はい」
 すっきり、とはいかないまでも上々の反応だったみたいで、ひとまず胸を撫で下ろした。
 伊東さんも怒ってなさそうだし。
『それと、例の件の話もありますから』
「え?」
『詳しくは後で。ではよろしくお願いします』
「あ、は、はい、伺います……」
 躊躇なく、ぷつりと電話が切れて俺はスマホを握ったまましばし止まっていた。
 ……例の件?
 そうだ、この間泊めてもらった時もたしか伊東さん、例の件、って……。
「例の件って、なんだ……?」







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