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 無言で歩いた。
 徹神父は、黙ってついてきた。
 話す気がしなかった。話したかったけど……口が動かなかった。
 背中に感じる気配を一度振り返る。
 徹神父は、俺と一瞬目が合うと、あの静かさで目を微笑ませた。
 そんな些細な事で、心臓が速く鳴った。
 ふと、徹神父とバザーで仲良く話していた女の人のことを思い出した。
 ……うまくいったのかな。あの女の人と。
 あんまり、いい記憶じゃない。自分の世界の異常さに気づいた重苦しい日だったから。
 そろそろ家だ。俺が足を止めると、神父もゆっくりと足を止めた。
「もう、この辺なので……」
 家の前まで行かないのは、住んでるボロいアパートを見られるのが恥ずかしいからだ。
 ああ……終わっちゃうな。
 別世界の人との、一瞬の交流。
「ありがとうございました、持ってもらって――」
 その人を仰ぎ見ながら、手を差し出した。
 でも、なかなか袋を渡してくれる気配がなくて、不思議に思って首を傾げる。
「こちらこそ、君にお礼を言わなくては」
「え……?」
 後ろから来た自転車を避けるように、優しく日陰に肩を押される。
 道端に寄りながら徹神父がポケットから取り出したのは、あの日、俺が拾った十字架だった。
「あ――」
「拾ってくれたでしょう?」
「な……なんで知って――」
「やはり……君が拾ってくれていたのですね」
 感嘆したような響きが混じる声に反応して、耳が痺れる。
「ぐ、偶然拾っただけです」
「それでも、これは私の大事な物です。とても助かりました」
 淡々と話す徹神父を見つめながら、俺は、全然違うことを考えていた。
 立っているだけで神々しく見えるこの人は……古ぼけた団地や傾いた塀の風景に全然似合ってない。
 ……そうだよ。正気になれ。
 ここはもう俺の世界なんだ。この人は、場違いすぎる。
「……なんで、俺がそれを拾ったこと知ってるの」
「目が合った時、君が拾ってくれたような気がしたのですよ」
 俺が疑わしそうに眉を寄せても、徹神父は静かだった。
「そんなの、俺が盗んだのかもしれないのに」
「私にはクロスを落とした自覚がありましたから」
 言われて、言葉に詰まる。
「そもそも、君がこれを盗んだとして……どうしようというのです?」
「……っ」
 こんなのおかしいよ。
 あの日、こんなに綺麗な人がこの世にいるのかって……話したいって思った相手が、今になってこんな風に話しかけてくるなんてうまい話、あるわけないんだ。
 もしかしたらこの人、本当は子どもばかり狙う殺人鬼かもしれない。
 そうだよ……急に声をかけてきて荷物を持ってあげる、なんて。どんなに清らかに見えたって、所詮心の中なんてわからないんだ。
「……俺をどうにかしたいの」
 俺がそう言うと、徹神父が窺うような目で見つめてきた。
「いいよ、連れて行ったら?」
 ほんの少し、声が震えたのが煩わしい。「言っておくけど、俺の家お金ないから。誰も身代金なんか払わないよ」
 試すような言葉ばっかり出てくる。
 ……だって、こんなに綺麗で、善意の塊の人間なんて、そんなのいるわけがない。
 そんな人が居るなら、俺はあまりにもみじめだ。
 徹神父は、何も言わずに俺を見てる。
 なんか……俺の方が試されてるみたい。
 なんで、そんな真っ直ぐに俺を見るの。なんでそんなに、静かでいられるんだよ。
「誘拐じゃなかったらイタズラ目的、とか? 丁度いいよ、俺が居なくなったところで気にする人はいないし」
 それに……俺、この人にだったら――。
「あんたが望むような声を上げてあげるし、好きにすれば――」
「空良」
 もっともっと静かな声が降ってきて、ぎくっと身体が強張る。
 ……び、ビビってなんかない。俺は、何も怖くない。
 希望のないこの世界で生きてる以上に怖いことなんて、ない。終わらせてもらえたら、楽なぐらいだ。
「愛しいです」
 一瞬、反応が遅れた。
「え……?」
「愛していますよ、空良」
 頭が、真っ白になる。
「は、はあ……?」
「神が君を愛するように、私は君を愛していますよ」
 何、言ってんの。そんな目で、何を。
「神は、いつでも君を見守っています。だから、大丈夫です」
 なに。
 その、いたわってるみたいな空気。
 包んでくるなよ。そういう優しいの、いらない。
 老神父の言葉が過ぎった。
『神様は見ていますよ』
 ……嘘だよ。そんなの。
「……なんで神父って……嘘ばっか言うの」
 徹神父は、何も言わない。
「神様が見てる? ばかみてえ……」
 そうだよ。だったら。「見てるんならさあ……っ、だったら……だったらなんで――!」
 ――俺は、こんなに苦しいの。
 喉の奥が絞まる。
 胸に氷の塊がつかえたように声が出ない。焦って、自分の胸を掴む。
 突然体を襲った異変に混乱していると、頬に何かが触れてびくりとした。
 徹神父の手だった。
「深く息を吸うんです……そうゆっくり……ええ、吐いて――」
 苦しい。
 溺れるように宙を爪で何度も引っ掻くと、徹の手が俺の手をとった。
 誘導されるまま、徹神父の体に縋る。
 神父は、俺の手から重い買い物袋を引き受けて、俺の震えが止まらない体を支えた。
「そう……上手です、もう一度、一緒に息をしましょう」
 冷静に囁く声に縋って、その通りにするしかなかった。
 大きい手が、肩や背中をゆっくりさする。
「何も心配いりません。私がいます」
 胸苦しさが少しずつ溶けて、吸う息が胸の深くに入ってくる。ひどく浅い呼吸になっていたことに、今やっと気がついた。
 広い胸に縋って、背中を撫でてもらいながら何度も呼吸をする。
「は……ぁ……」
「……顔色が戻ってきましたね」
 震える息を吐くと、徹神父の指が、俺の目元を空気で撫でるようにした。
 見上げると、包むような眼差しが降ってくる。
「腫れています」
「え……あ」
 忘れてた。
 昨夜、酔ったあいつが母さんを殴ろうとしたから、とっさに間に入ったんだ。
 勢いを殺がれた固めた拳が、目元に当たって――。
「痛みは?」
 徹神父の声が、そこを撫でるようにそっと落ちてくる。
 心地良くて、返事をするのを忘れた。
「……首元を冷やさなければいけなかったので、君の服の胸元を開けました」
 言われて、弾かれたように目の前の神父を見上げる。
 静かな眼差し。
 口から心臓が飛び出そうだった。
「もしかして……俺を、助けてくれたのって――」
「助けたなんて大げさです。君が倒れた瞬間に居合わせて、処置をしただけです」
「あ、の」
 思わず自分の胸元を握りしめる。「……見た、んですか」
 徹神父は、何も言わずに肯定していた。
 バザーの日、俺の胸には突き飛ばされた拍子に箪笥に強く打ち付けてできた痣があった。右の肩には……手形がついてたはずだ。父親に強く掴まれた時のが。
 言葉もなく俯くと、軽く曲げた指の腹で顎先を押し上げられた。
 徹神父の目が、正面から柔らかく見つめてくる。
 見透かされそうで気まずくて、目を逸らした。
「……小鳥や猫の話を知っていますか?」
 見上げて眉を寄せる俺に微笑んで、徹神父が続ける。「彼らは傷ついた時、何でもない顔をするんです」
 静かな声が、胸の奥まで。
「生きていく為に必要だからそうするのです。私はいつも彼らをいじらしく……愛しいと思うのですよ」
 綺麗に澄んだ、声。
 俺のどこに凍って眠ってたのか、雫になって目から溢れた。
 止まらない。優しい目に促されて、どんどんどんどん。
 ……今思えば、限界だった。
 泣き叫ぶ母さんを見るのが。
 嵐が去った後の酒臭い部屋で、体を震わせる母さんの背中を撫でることが。
 自分以外に母さんを守る人がいない――その現実がずっと圧しかかっていて。
 潰れそうだった。
 兄貴に泣いて頼んだこともある。ひどい暴力があった日、『その内、あいつは母さんに取り返しのつかないことをする。家に居て一緒に守ってほしい』って。
 でも、ダメだった。大げさだって一笑されて……兄貴は、余計家に帰って来なくなった。
 きっと兄貴も、父親が怖かったんだ。
 酒乱の帰宅は、深夜や早朝だった。独特の足音に、布団の中で聞き耳を立てる毎日。
 俺がいつでも起きて行って止めに入らないと――その緊張で、深く眠れた日はなかった。
「俺……俺……っ、母さんが、死んじゃうって、殺されるって思って――」
 言葉と涙が溢れ出て、しゃくりあげた。「……俺、父さんが怖い……っ」
 手の甲で涙を拭う前に、大きな手が目元を撫でた。
 そのまま肩を引き寄せられて、徹神父の胸に額を押し付ける。
「もう大丈夫です。一人でよく頑張りましたね」
 不安が溶けてく。
 現実には何も変わってはいないけど、徹神父に見つけてもらって、もうすべて赦された気になった。
 縋ったシャツが、俺の涙でどんどん湿る。
 体を離そうとしたら、優しい強さで広い胸の中に引き止めてくれた。
 俺が泣きやむまで、その腕はしゃくりあげる俺の背中に添えられていて。
 大きな天使に、羽で包まれているみたいだった。

 もしかして、神様はいて。
 この美しい大天使を遣わせてくれたのかもしれない。





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