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そろそろ、夜の1時だ。
もう、兄さんも寝てると思う。
俺は、重い重い足を引きずって、1泊15万の部屋に引き返した。
音がしないように部屋の入り口の引き戸を開ける。部屋から漏れてくる灯りはない。少しほっとして戸を開けた。
「……?」
後ろ手に閉めようとした戸が、何かに引っかかった。
ぐっと開かれて、振り返る。
「ぁ……」
心臓が跳ねた。
兄さんが、まだ濡れている髪をかき上げて立ってたから。
気だるそうに降ってくる視線は、風呂上がりのせいか倍の破壊力だ。
上がり口で体が密着しそうになる。俺は、焦って部屋に上がりこんだ。
背の高い兄さんには浴衣の丈が少し足りてない。白地に紺の模様が入った浴衣の着崩し方がさすが様になっていて、覗く胸元にくらくらする。
そそくさと奥の和室に逃げ込もうとしたら、簡単に捕まってしまった。
「……どこ行ってた」
「ラ、ラウンジ……もう寝てると思ったのに」
「おまえが帰ってくるのを待ってたんだよ」
腕を引き寄せられて、息が止まる。
「酒飲んでないだろうな、未成年が」
掴まれた腕をやんわり外して逃げようとした俺を、兄さんは、黒の障子戸に手をついて阻んだ。
ち、近い……!
「お、俺、もう寝――」
「逃げるな」
薄闇に響く静かな低音に、ひ、と喉の奥で声が凍る。凄味のある気配にごくりと唾を飲んだ。
湯上りの熱気と香りが移ってきて、目眩がしてくる。
これ以上近づかれたら、心臓がどうにかなる。ネクタイを結んでくれた時みたいに、髪に吐息がかかって首筋がぞくっとした。
「俺の目ぇ見ろって」
……無理。絶対ムリ。こんな至近距離で兄さんを見れるわけない――。
俯いたまま唇を噛み締めた。
俺は、失恋したばっかなんだよ……今日は、そっとしといてほしいんだ。
ほ、ほら見ろ。
……涙が、出そうになるじゃんか……っ。
「寝ようよ……俺、もう眠い」
「わかった」
兄さんが呟いて、離れる。
ほっと息を吐いたタイミングで、ぐいと腕を引かれて、布団が敷いてある部屋に押し込まれた。
「わ! ち、ちょっ――」
一段上がった高さに引っかかって、布団にへたりこむ。
兄さんが後ろ手に障子戸を閉めると、一気に空間が狭くなった。
外光が閉め出されて、薄明の照明が俺の上に兄さんの影を伸ばす。
心臓が、踊りだした。
兄さんが乱暴な足どりで、布団の上にへたりこんだ俺の傍に立った。
「え……わ!?」
ものすごい至近距離に座り込まれて、思わず身を引こうとする腕を掴まれる。
「逃げんなっつってんだろ」
「ち、近いよ」
「近いのが嫌?」
必死に頷くと、兄さんが、ふっ、と口元を笑わせたように見えた。
「じゃあ……くっついちまえばいいよな」
え、と言葉を、発せられなかった。
だって。
俺の口と、兄さんの唇が。くっついていた。
キ、スされてる。
……なんで?
俺の腕を掴んだ兄さんの手に、力がこもる。
いたっ、と思った瞬間に押し倒された。
柔らかい感触を味わう間もなく、唇を噛まれる。驚いて口を開けたら、ぬるって。
――し、舌……っ?
噛まれて舐められて吸われて……キスなのかなんなのかよくわからなくなる。
舌も唇も溶けそうで、頭の奥がジンジンして。
……力が入らない。きもちいい。すごく――。
唇がわずかに離れる度に、やっと息継ぎするんだけど、また息を奪われる。
時々、鼻に抜けるような兄さんの呼吸が聞こえて、腰がぞくぞくした。
ふと、微かにお酒が香る。
あ……わかった。
「……ふ、ぁ……に、兄さん、酔って、る――」
「黙って」
とろんとした声。絶対、正気じゃない。
もう唇がとけちゃったんじゃないか、というぐらいたっぷり貪られてから、すっかり熱が移った唇が勿体ぶるようにゆっくり離れる。
もう体の力なんて入らなくて、俺は、ぼんやりとその唇を見送った。
舌が糸を引いて、カッと体温が上がる。
「……大人しくなった」
降ってきた気だるい低音が、腰に、じんって響く。
失った酸素を取り戻すために喘ぐので精一杯だ。当然のように反応してしまったそこを隠したくて、膝を擦り合わせる。
兄さんが、形のいい唇を端から端へゆっくりと舐めているのを見ていたら、背中のざわざわが止まらない。
「泣いてんじゃねーよ……」
「……え」
とろとろと、兄さんの目が怪しい。
「あんな風に……かれ、たら……だろ、が――」
……え、え?
今、なんて言った……?
ろれつが怪しい。すごく酔ってるのかも。
ぐら、と傾くように圧し掛かってきた兄さんが、俺の首に顔を埋める。そしてそのまま首筋を舐めた。
「ひっ!?」
「あんな顔して泣かれたら……その気になるだろ」
「んぁっ」
ぞわっと背筋が震える。
……そこで、しゃべんないで!
ちょっとどころじゃない、兄さんは完全に酔ってるんだ!
俺が出て行った後にどれだけ飲んだのか知らないけど、こんな兄さんははじめてで。
「え、あ、ちょ……」
兄さんの手が俺の浴衣をはだけて、内腿を中指で滑り上がってくる。
「ぁ、ンっ」
待て待て、この声は恥ずかしい。
でも、首が、あ、足が――心臓が爆発する……!
「や、や――」
ダメだって。それ以上触ったら、その上は……。
――やめろーっ!
……って気持ちを込めて、兄さんを押しのけた。
どたり、と押しのけられるままに、兄さんが寝返りを打つ。
「え……?」
仰向けに転がった兄さんを覗き込むと、安らかな顔で寝息を立ててた。
呆然と、その寝顔を見る。次の瞬間、一気に頭へ熱が駆けのぼった。
「……っ、この……っ」
……ばかやろー……。
振り上げた拳の行き場所がない。空しく、ばふと布団を叩いた。