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あれは、夏休み最後の日曜だった。
じっとしていても汗が滲み出す気温で、朝から疲れてた。
遊ぶ約束をしていた友達が迎えに来て、体に鞭打って家を出る。
「幼稚園のバザーに行こう。飲み物貰えるし」
友達に勧められるまま、蝉の声が降る道を歩いた。
幼稚園の運動場は、賑わっていた。
配布係のおばさんからミニ缶ジュースをもらう。喉に流し込むと、甘くて生ぬるい。でも、友達が嬉しそうに飲んでるのを見たら、全てがどうでもよくなった。
広場の一角に人だかりができていて、その輪の中心に笑顔のおじいさんがいる。
「……誰だろ。なんか有名人?」
「あ、神父様だ」
友達は、返事らしきものを残して『神父様』の所へ走って行った。
(そういえばあいつ、カトリック教徒だったっけ)
いつも持ってるっていう十字架を見せてもらったことがある。
老神父の声が、微かに聞こえてきた。
「どんな時でも神は見ておられます」
――神なんているかよ。
思ってから、自分の言葉に嫌な気分になった。
ぶるっと身体が震える。……暑いのに寒い。おかしい、と思った。
照りつけてくる太陽に灼かれて溶けてしまうのかもしれない。
(日陰に入りたい……)
足元がグラグラしてる。汗で背中に貼り付くシャツが気持ち悪い。
ぼんやりした頭で、辺りを見回して言葉をなくした。
――……灰色だ。
並べられた品物が、人が。乾いた砂みたいに色がない。
人の笑顔が、粘土に穴をあけたように見える。
「なんだ、これ……」
気持ち悪い。
人の話し声が、遠くなったり近くなったりしながら、雑音になってまとわりついてくる。
冷たい汗が噴き出た。地面が大きく揺れて、倒れないように踏ん張る。
熱い。暑い。うるさくて……寒い。雑音と粘土の群れに押し潰される。体に力が入らない。息が……苦しい。
……誰、か。
助けて。おかしくなりそう。
この乾いた感覚から助け出して。……誰でもいいから。
身体が冷たくなっていく。人波に溺れてた目が、幼稚園の建物に泳ぎ着いた。
――白。
清潔そうなシャツの色。その色の感覚に縋りつく。
……男の人だ。白いシャツを腕まくりして、重そうなダンボールを運んでる。
騒がしい空気の中で、一人、淡々と。
背筋が伸びた姿は、静かなのに堂々としてる。
子どもが走ってきて、その人の腰の辺りのシャツを引っ張った。
男の人は、手を止めてゆったりと振り返った。子どもを見下ろす眼差しが柔らかい。
その空間だけ、時間が止まってる。
視界にぼんやりと滲んだ白が、その人の背中に生える大きな羽根に見えた気がした。
遠のいていたざわめきが戻ってきて、冷や汗を拭う。
不思議と、気持ちが落ち着いていた。
……あの人、誰なんだろ。
「あの神父、最近来たんだって」
心の声を聞かれたのかと思って、驚いて振り返る。
女の人が二人、近くで話していた。一人はベビーカーに赤ん坊を乗せている。もう一人は短パンとブラジャー……のような、殆ど下着みたいな格好をしてた。
白いシャツの人を指差して話してる。
……神父なんだ、あの人。
「まだ大学生らしいよ」
「わかーい」
兄貴と同じくらいだ。
家にあの若い神父が居るのを想像しようとしたけど、うまくいかない。うちの狭いアパートの部屋は似合わなそうで。
「声かけちゃおっかなー」
その言葉に、ぎくっとする。下着みたいな格好の女の人が、ピンク色の唇を突き出して髪先を指で弄んでる。
「あんた彼氏いるのに」
「だってかっこいいんだもんー。あの体……すごいタイプ」
心臓が跳ねる。言い方が……なんか不安になる。
でも、女の人の言う感覚もわかる気がした。スラっとしてるのに、清潔な白いシャツからのぞく腕や首筋にはしっかりと筋肉がついていて、男の目で見てもかっこよくて綺麗だと思った。
「なに話してるの?」
友達っぽい女性がもう一人合流してきた。ピンクの唇の人が、若い神父を無言で指差す。
「うわ、めっちゃかっこいいね。あ、もしかして……」
胡乱な目で見られたピンクの唇の人は、可愛く笑った。「当たりーっ。ちょっと行ってくる」
「もー、ちょっかい出すのやめなよ?」
「そうそう。カトリックの神職は女は禁止だし」
「嘘っ。もったいなーい」そう言って、ピンクの唇の人は残念そうに続けた。「――……あんなに美味しそうなのに」
その声は、周りの音に掻き消されてたけど、俺にははっきり聞こえてしまった。
たわわな胸が組んだ腕に押しつぶされるように寄るのが見えて、心臓がどくどくする。
舌先がピンクの唇をくるりと濡らして、晒された太ももが汗で光ってた。長い睫毛に縁取られた目は、若い神父をねっとりと舐めるみたいに見て――。
ジンっ、とお腹の奥が疼く。
思わず、もじっと膝をすり合わせた。
体温が上がる。煽られた体が痛い。
(俺、さいてー……)
友達の家でふざけて見た成人サイトの動画。わざとらしく喘ぐ女と、息遣いばっかり荒い男。どう見ても恋人同士じゃない……ただ肉体が絡まっているだけの映像。
あれを見た時と、同じ感覚だ。問答無用に興奮させられる、あの感じ。
動画は、最後まで見てない。歪んだ関係の両親を思わせて、まともに見れなかった。
頭の中であの映像が、若い神父とピンク色の唇の女の人に置き換わる。
若い神父は、何も知らない清潔さで重そうな荷物を運んでは、顎に流れる汗を拭ってるのに。
あんなものと重ねてしまうなんて……最低だ。
(……気持ち、わるい……)
いろんなものが混じりあう世界に、吐き気がする。
戻ってきた友達が、怪訝そうに俺を見た。
「おい、顔色やばいよ……?」
「……人に、酔ったかもーー」
かろうじて、空になった缶を掲げて見せる。「これ……捨ててくる」
「あ、うん。この辺適当に見てるから」
心配されたくなくて、友達を残したまま人混みを抜け、会場の隅のゴミ入れの前まで来る。
少しだけ、ほっとした。
賑やかな人々の波を振り返る。
……あの中に戻れる気がしない。
まだ、おなかの奥に火がくすぶってる。自分の心と体が、繋がってない気がした。
ふと、視界の隅で何かが光った。見ると、鈍く輝きながら砂に埋まりかけてる。
(――十字架……?)
近づいて手に持つと、ずしっと重い。
「落し物かな……」
友達が持っている十字架とは少し違う。キリストが彫り込まれて細かい装飾もついてる。
辺りを見回すと、ポケットを探っては地面に目を彷徨わせてる人がいた。
「あ――」