[]



 あの、若い神父だ。
(この十字架を探してるのかな……)
 緊張してきた。……どうしよう、これ。
 手の中の十字架と、遠くの神父を何度も見比べる。
 渡した方が……いいよな。
 一歩踏み出す。
 と、同じタイミングで、あのピンクの唇の女の人が神父に話しかけるのが見えて足を止める。
 若い神父が、子どもへの対応と変わらない表情で話してる。あの女の人相手に表情ひとつ崩さないでいられるのが……すごい。
 女の人が辺りを見回し始めた。きっとこれを……十字架を探しているんだ。
 髪を揺らしながら、こっちに歩いてくる。
 むちっとした足と、揺れるお尻。
 問答無用の色気は迫力があって、俺は、気が負けているのを顔に出さないように立っていた。
 女の人と、目が合う。怪訝そうに濃い眉を寄せて、ぽってりした唇が突き出された。俺が持っているロザリオを見ると「あ」って口が動いて、足早に近寄って来る。
 ……逃げ出したい。
「その十字架。あんたの?」
 一瞬、頭が真っ白になる。
 なぜか泣きたくなった。
 言えばきっと、渡さないといけなくなる。
 ……十字架を?
 あの、若い神父を……?
 急かすように見つめられて、俺は、すぐに負けた。
「……拾い、ました」
「じゃあ私が渡しておく。持ち主知ってるから」
 そう言うと女の人は、長い睫毛を瞬かせて、目で催促した。
 俺は、右手を開いて十字架を差し出した。
 女の人が、指で持つ。そして足早に遠ざかって行った。
 俺は、軽くなった右手を下ろすことができないでいた。
 女の人が、若い神父に声をかけるのをぼんやり見る。
 神父は振り向いて十字架を受け取ると、口を「ありがとう」って動かしてる。続けて何か話しているみたいだった。
 男女が並んで立つ。
 逞しく伸びやかな姿と、豊満な曲線美。ぴたりと凹凸がはまったように見える。
 男と女は、一対のもの――なのに俺の両親は、なんでぴったりはまらないんだろう。
 何かが、体の中心から抜け落ちたような気がした。
「……あ」
 空き缶、握りしめたままだ。
 重い足を動かして、ゴミ箱の前に戻って捨てる。勢いがついた缶は、ガシャリと大きな音を立てた。
 顔を上げると、遠くの若い神父と目が合ったような気がして、心臓が跳ねた。
 でも一瞬だった。俺が目を逸らしたから。
 ……早く友達のところに戻ろう。早く帰ろう。
 ここに居るとみじめになる。俺が住む世界と、あまりに違う。
 あんな綺麗な人と、可愛くて色っぽい女の人と。真夏の、雲のない青い空。
 楽しそうな家族連れや走り回る子ども。蝉の鳴き声。……白いシャツ。
 みんな、違う世界なんだって思えば……全然大丈夫。
 大丈夫だよ。
 俺は、壊れたりしない――。
 思って踏み出した途端、ぐにゃっと視界が揺れて膝をつく。
 嘘――。……力が入らない。
 陽がジリジリと背中を灼いて、また冷や汗が噴き出してくる。
 今度は、背中や手がブルブル震え始める。
 とっさに、ダメだ、と思った。
 足から力が抜けて、その場に倒れそうになる。
(これ、やばい、かも)
 次の瞬間、体が自分のものじゃなくなった。
 ごろっと、身体が熱い砂の上に転がるのを他人事のように感じる。
 地面の感触が、なぜか落ち着いた。
 ここが一番低い場所だ。これ以上、落ちることはない。
 ざわめきが遠くなって、視界がかすむ。
 誰かが何か言いながら、こっちに足早に歩いて来る気配がするけど。
 でも、もうよくわからなかった。




 冷房の効いた部屋のソファの上で目を覚ます。
 額にタオルがあてられていた。
 ゆっくり体を起こして、おなかにかけられたタオルケットをめくる。
 職員室みたいだけど、人の気配がない。
「あら」
 棚の陰からおばさんが顔を出した。「起きたのね、ちょっと待ってて」
 言い残して部屋を出て行く。少しすると、俺の友達と一緒に戻ってきた。
「空良! 何やってんだよ!」
 友達が早足で歩いてくる。「おまえ倒れたんだぞ。熱中症だって」
「今……何時?」
「2時だよ」
 倒れてから、あまり時間は経ってなかった。
「帰るか?」
 友達が、不機嫌そうに言う。当たり前だ。炎天下の中、捜し回らせてしまった。
「うん……ごめん」
 のろのろ立ち上がって、おばさんに声をかける。「ありがとうございました」
「もう大丈夫? 気をつけてね」
 幼稚園の関係者っぽいおばさんに頭を下げて、職員室を出る。
 園児サイズの廊下を友達の背中について歩きながら、疑問に思った。
「……誰が連れてきてくれたんだろ」
「さあ。とりあえず俺ではないよ」
 そっか、と返事して、友達に続いて一緒に外に出る。
 むっとした暑さがまだ体にきつい。強い日差しから逃げるみたいに人混みをふらふら歩く。
 幼稚園の門が、すごく遠い。
 日陰になってる倉庫の前で、さっきの女の人と、あの若い神父が話してるのが見えた。
 女の人は、夢中みたいだった。頬を赤くして、さっきまでの挑むような、こわい色っぽさなんてなくなって……普通の可愛い女の子の顔になってる。
 神父はなにか作業をしながらだったけど、変わらない優しそうな笑顔で相槌を打ってる。
 楽しそうだ。夏の日差しだって、あの人達には優しく降り注いでいる。
 殴られる母さんと、人生を諦めた兄貴と。父親と思えない酒臭い男――そういう世界に、これから戻っていくんだ。
 虚しかったけど、でも、せいせいした。今日で、はっきりわかったから。
 ――俺の世界に、神様はいない。
 友達と会場を出ていこうとすると、いつの間にか傍に居た老神父に話しかけられた。
「気をつけて帰るんだよ」
 丁寧にお辞儀を返す友達を他人事みたいに見てた。
 老神父が、俺を見て言う。「神様は必ず見ていますよ。善い行いを」
 瞬間、胸の奥で、血が赤黒く沸騰した。
「……いない」
 口をついて出た言葉に、老神父が驚いたような顔をする。
 空気が凍りつく。それにすら苛ついて、たたみかけた。
「神様なんていない。誰も何も見てない。嘘ばっか言うな……!」
 近くにいた大人が、嫌そうな顔をしたのがわかった。背中に、他人の針のような不快感がぶつかってくる。
「空良……何言ってんだよ……!」
 頬を紅潮させて慌てる友達を見て、我に返った。
「あ……」
 静かに俺を見てる老神父の目は真っ直ぐで、気まずい。
 思わず手で口を覆った。
 ――俺もう、消えちゃえればいいのに。
 老神父は何か言おうとしていたみたいだけど、俺にはもう、誰かの言葉を聞く気力がなかった。
 押し黙った友達と、足早にその場を去る。
「……ごめん」
 カラカラの喉から絞り出すと、友達が振り返らずに言う。
「具合悪いんだろ。別にいいよ」
 不機嫌な声が、夏の湿気を吸う。
 俺は、消え入りそうな声でもう一度、ごめん、と言った。




 つづく
 16/01/20 改稿




[]




- ナノ -