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「……はあ」
 アイボリーの絨毯の上を行ったり来たりする。部屋に戻りそびれていた。
「あの……?」 
「わ!」
 いきなり声をかけられて飛び上がった。
 くすくすっという柔らかい声に振り返ったら、和服姿の見覚えのある女性が立ってる。
 茶髪をまとめて、おだんごってのにして。西洋人形みたいな顔立ちは、去年会った時より華やかになった気がした。
「ちょうどご挨拶に上がろうと思っていたんです」
「な、菜摘(なつみ)さん――」





罪人は、それでも幸せを願う
−第2話−





 菜摘さんと一緒に部屋に戻ると、章宏兄さんは、珍しく驚いたような表情をした。
「お久しぶりです」
 そう言って正座をしたのは、松崎菜摘さん。松崎旅館の2人姉妹の2番目だ。
 紅色の唇を柔らかく微笑ませている。
 こういう笑顔を『花のような』って言うんだろうな。
「いつもお世話になっています」
「こちらこそ、いつもご贔屓に」
 兄さんが、三つ指ついた菜摘さんに目礼した。
「弟さん、大きくなられましたね」
 菜摘さんはそう言って、兄さんの後ろに離れて座っていた俺に、にこりと柔らかな笑みを向けた。「可愛くなられて――あ、男性には褒め言葉になりませんわね」
 ……確かに、あまり嬉しくはないか。
「美男子でいらっしゃるわ。覚えて下さってて嬉しかったです」
 美人な菜摘さんは、余裕の笑みを浮かべて言い過ぎってくらいに褒めてくれる。
 ありがたく頂戴して、俺も会釈で返した。
「お父様は、お変わりありませんか」
「元気にしています」
 兄さんが微かな笑みで返す。お客様を迎える時の綺麗な微笑みだ。
 菜摘さんは、それを同じ温度の微笑みで受け取る。
 ――このツーショット、絵になるなあ。
 思ったら、胸がざわざわした。
「先日は、急なお話で驚かれたでしょう」
 菜摘さんが少し表情を曇らせて兄さんに言った。小首を傾げた仕草がなんとも綺麗なんだけど。
 ――急な話……?
「章宏さんは、お若いですし……困らせてしまうのではと」
「そんなことは」
 兄さんの声が硬くなった。「近く、必ずお返事します」
「気が早いかもしれませんが、私はすてきなご縁だと思っております」
 すてきな……ご縁――。
「良いお返事いただけると嬉しいですわ」
 菜摘さんが、また花のような笑みを浮かべる。
 艶やかなその唇に、不安になった。


「少し出てくる」
 そう言って立ち上がった兄さんの気配で、我に返った。
 俺は、いつのまにかぼーっとしてたみたいで、菜摘さんはもうとっくに居ない。
 旅館のつっかけを履いて廊下へ出て行こうとしてる広い背中に、慌てて声をかける。
「兄さん、今の話――」
 喉の奥が、はりついてしまったみたいに声が出なくなった。
 ……本当は、訊かなくたってわかる。わかるんだけど。
 否定して欲しかった。
 俺が思っているようなことじゃないんだって、言って欲しかったんだと思う。
 開けかけた引き戸に置いた手を下ろして、兄さんがこっちを見る。
 心臓が、痛いくらいに鳴ってる。
「別に黙ってたわけじゃない」
「う、うん……なに、を――」
 兄さんが、珍しく言葉を渋っている。
 聞きたくない。でも、早く知ってしまいたかった。
 焦れて、もう一度、なにが?と呟いてみる。
 兄さんが、観念したようにため息をして口早に言う。
「縁談がある。菜摘さんと」


 ……気がついたら、部屋に1人で呆然としていた。
 いろいろ整理しなきゃいけないんだけど、頭の中が散らかってる。
 ――兄さんが。菜摘さんと。
 得意先のお嬢さんと……お見合いするってこと、なんだよな。
 松崎さんとの付き合いを考えれば充分に有り得ることだ。
 もし兄さんがお見合いを受けたら、きっと、あっという間に話が進む。
「そうなったら……兄さんと菜摘さんは結婚を……」
 さっと血の気が引いた。
 兄さんの紋付き袴姿が浮かんで、眩暈がした。
 似合ってる。すごく。きっと、西村の特注だ。
 その隣に、角隠しした白無垢の菜摘さんの姿が。
 三三九度の盃の赤と。菜摘さんがさした紅の赤。
 そして、兄さんの伏せた目と。盃で酒を受ける、長い指。
 俺のネクタイを結んでくれた器用な手が、綺麗な唇に盃を運ぶんだ――。
「――い、おい」
「あ、えっ?」
「茹で過ぎ」
「……あ!」
 箸でつまんだ肉を鍋に入れたまま、ぼーっとしてたらしい。
 たれをつけて口に運んだら、軽く火傷をした。
「アホ、慌てるからだろ」
 ひりひりする唇を舌で舐める。痛い。味も何も、わからない。
「……晴哉」
 小さい溜息と一緒に呼ばれて、体が強ばる。
 兄さんを見ると、少し困ったような顔をしていた。
「何度も言うけど、黙ってたわけじゃない」
 兄さんは箸を置いて、猪口の日本酒を一口飲んで続けた。「まだどうなるかわからない話をしても、混乱させると思ったから」
 別に、俺に気を遣うことなんかない。
 それともその逆で……俺のことはどうでも良かったのかもしれないけど。
 胸がじくりと灼ける。
「……返事、いつするの?」
「決まってない。親父とも改めて話をしないと」
 兄さんが、米を一口頬張る。
「受けるの」
 兄さんは、黙って咀嚼している。
 ……ほんとは、断る、って言ってほしいんだと思う。なのに俺は、気持ちと裏腹なことを言ってしまう。
「菜摘さん、美人で気が利きそうな人だよね」
 一瞬間があいて、兄さんが言う。
「ああ、そうだな」
 ズキ、と心臓が痛んだ。
 違う。こんなこと言いたいんじゃない。ひとつ深呼吸した。
「……菜摘さんのこと、好きなの」
「そういうのは、問題じゃない」
「え?」
「俺の気持ちは関係ないだろ。これは、西村の問題だからな」
 あの、胸が締めつけられるような感覚が襲った。
 きっと兄さんは、結婚するんだ。『西村』の為に。
「そんな……好きな人と結婚しなよ」
 ぎゅっと膝を握り締める。「……家のために、兄さんが犠牲になることないと思う」
「……妙な言い方するな」
「だってそうだろ。今時、結婚相手も自由に決められないなんて」
「晴哉」
 強い冷静な声に、息を呑む。
「俺には俺の役目がある。縁談の話はこれで終わりだ」
 とん、と突き放されたようだった。
 兄さんが綺麗な手で箸を持ち直して、野菜を湯に通す。
 俺は、それを見ていた。
「やっぱり……結婚するんだ」
「決まってないって言っただろ。もうこの話はいい」
「今回しなかったとしても! いずれは……『西村』の為に結婚するんでしょ」
 無言で一口食べた兄さんが、言う。
「わからない。今はわからない話をしたって、しょうがないだろ」
 どうして?
 この人は、という人が現れたら。兄さんが、添い遂げたいって思える人ができたら。そういう人と結婚をする――そうじゃなかったら、おかしいじゃないか。
 どうして、自分の未来なのにわからないなんて言うんだろう。
 どうしてそこまで、西村の為に生きようとするんだろう。
 ――そんなの……兄さんの心が、人生が、どこにもない。
 兄さんが、顔を上げた。
 驚いた表情で固まっている。口が僅かに開いて、言葉が出てこないみたいで。
「……どうした」
 兄さんが、やっと一言、そう言った。
 そんなの、わかんないよ。
 ぼろぼろ涙が出てきて、一番驚いてるのは俺なんだから。
 哀しい。苦しい。嫌だ。胸がぐるぐるする。
 なんで、こんな風になるんだろう。
 ……。
 ……俺、嘘つきだ。
 兄さんが、幸せならいいとか。
 兄さんの安らげる場所になりたいとか、全部きれいごとなんだ。
 だって、こんなにどろどろした気持ちになってる。
 『西村』の為に結婚しなきゃいけない兄さんを見ているのが辛いんじゃない。
 兄さんが誰かの特別な人になって、離れていってしまうのが辛いんだ。
 でもそれでも……兄さんが好きになって選んだ人なら、きっとまだ諦めがつく。
 けど、好きでもない相手となんて。そう思ったら余計に苦しい。
 いつか来ることなのに、何も受け止められない。何も覚悟できてない。
 このままここに居たらしゃくり上げてしまいそうで、慌てて席を立った。
「おれ、風呂行って来る」
「おい」
「ごちそうさま」
「晴哉、待――」
「ほっといてよ!」
 兄さんが、少し目を大きくして口を閉じる。
 俺は、大きな声を出してしまったのを後悔した。
「……ごめん、急で驚いただけだから。ちょっとパニクって……頭ぐしゃぐしゃ……」
 取り繕いに、はは、と苦笑いをこぼす俺を、兄さんが眉をひそめて見ている。
 その唇が、何か言いたげに開きかけるのを慌てて遮った。
「……俺、すごいブラコンだから。それだけのことだから」
 笑ったつもりがうまく笑えてなかったらしいのは、兄さんの表情でわかった。


 その晩は、兄さんを避けまくってしまった。風呂も出会さない内に早々に切り上げて、ラウンジに逃げてきた。
 2人きりになりたくなかった。なれなかった。
 味のしないオレンジジュースを飲みながら思う。
「……なんだ。ただの失恋か」
 世間一般に言う、失恋だな、これ。
 まさかこの旅行がこんなことになるなんて――旅行前にそわそわしてた俺に一言言ってやりたい。
 兄さんへの気持ちを消去する準備をしとけよ、って。




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