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こひとうつしよ   3










 空いた座敷を片付け終えて出た所で、廊下の先を柏木兄さんとお客が歩いていくのが見えた。兄さんの腕に、絡みつくように体を寄せた綺麗な女人は、この世の春かのようにとろけた目だ。
(……惚れ込んでるんだろーな……柏木兄さんに)
 兄さんはいつも通り飄々とした様子だけど、傍らに女人がいると更に男前が上がって見える。
 立ち止まると、二人向い合って……手を握り合った。指を絡ませて、何か話してるみたいだ。
 他の兄さんたちも、ああいう風にお客と別れを惜しんで見せる。
 恋した女と、恋を装う男――花が咲いて散っていく、そんな光景。
 兄さん方の本当の姿は、ここにない。
 特に、柏木兄さんはそうだ。
 微笑んでいたって、その奥の本音はわからない。
 ――傍付きの俺にだって、わからない。
「どーした」
 驚いて振り向くと、俺の一つ上の紅緑(こうろく)が立っていた。
 元、柏木兄さんの傍付き。数年前、廊下で御膳をひっくり返した男だ。
 紅緑は、昨秋から座敷に上がるようになって、着物も雰囲気もすっかり兄御になっていた。元々綺麗な顔だったけど、成長したら男らしさが増して、上々の人気。先月は、店で5番めだったらしい。
「紅緑、調子どう?」
「まあまあだな。おまえは初座敷、失敗したんだって?」
「……その話はするなよな……」
 紅緑の耳にまで入ってるなんて。
 ぶすっとして返事したら、紅緑がおかしそうに言う。
「いっつも走り回ってるおまえが、なにをぼさっと突っ立ってんだよ」
「あー……えっと」
 紅緑は、渋っている俺の頭越しに、ひょいと廊下の先を見た。
 柏木兄さんの姿を目に留めたのか、はいはい、と呟いて俺の背を押す。
「遠慮することねえや、脇を通って行けばいいじゃねえか」
「あんな雰囲気、そりゃ遠慮もするよ」
「こんなとこで突っ立ってると余計邪魔だろ」
 紅緑に、気のすすまない背中を押されて、俯いて歩いた。
 柏木兄さんと、お客さんの会話の内容がわかるほど近づく。
「接吻して」
 お客の、羽が舞うような細い声が耳に入って、ぎくっとして目を上げる。
 ……見なければいいのに、兄さんがその人の腰を引き寄せて、屈むように唇を寄せるのを見てしまった。
 ふと、その目が。
 俺を、見――。
 心の臓がドクンと鳴って、目を背ける。
 足早に脇を通り抜けた。
 こんなこと、日常茶飯事のはずなのに。
 俺、今朝から変だ。妙に兄さんを意識してしまうっていうか……いちいち胸が痛くて。
 角を折れたところで足を止める。磨かれた床を見つめて、思った。
 ……これ、嫉妬だ――。
 目を上げると、ついて来た紅緑の視線とぶつかった。何か言いたげだ。
「……なに?」
「夕凪、おまえ今日の座敷は?」
「ないよ。俺、傍付きに戻ったから」
「は?」
 そんなことあるのか、って。信じられないって表情だ。
「でも、俺、ほっとしてるんだよ」
「ふーん」
 唸って、紅緑が俺を見ながら続ける。「……おまえさ、俺のとこ来ない?」
「え?」
「俺の傍付きやらないか」
 突然のことに、呆気にとられた。
「おまえよく働くし」
「さては、こき使う気だろ」
「まあな? それに……男客がダメなんだって言うなら、俺が教えてもいい」
 一瞬、思考が止まる。
("教える"?)
「……って、どういう意味――」
 読めない表情で俺を見つめている紅緑に、尋ね返そうとした。
「立ち話。ご主人に殺されるよ」
「ぅわっ」
 すぐ背後から声がして飛び上がる。
 送り出しを終えた様子の気だるそうな柏木兄さんだった。
「うわ、じゃないよ」
「すみませんっ」
「あら、紅緑か。久しぶり。調子いいそうじゃない」
「柏木兄さんには到底敵いません。今日はもう座敷いくつめですか」
「ひいふう……、九つか」
「相変わらず怖ろしい人だな」
 言ってから、紅緑が俺を見て囁いた。「さっきの話、考えておいてくれよ」
「え、あ――」
 紅緑は、狼狽える俺に構わずに一瞬柏木兄さんと視線を交わすと、場を譲るように廊下を歩いて行く。
 俺は、その背中を首をひねりながら見ていた。
 あいつ、急に何を言い出すんだろう。
「おまえたちは、飽きずに仲がいいね」
「仲がいいというか……からかわれているというか……」
 そうだ、未来が見えるお客さんのことを言わないと。柏木兄さんに向き直って、頭を下げる。「兄さん、さっき視てもらいました。ありがとうございました」
 神通力の話には疎いし、言われたことも曖昧だったから半信半疑だけど。「なんだか……いいことを言われました」
「へえ?」
 ……消えるかもしれない、ってことは、口にしなかった。
 消える、って……どういうことだろう。どこか遠くへ行くのかな。
 それとも……死ぬ……?
 一瞬、ゾクリとしたものが通り抜けた。
 わからないことを考えても仕方ない。あの人だって、未来は変わることがあるって付け加えてたし。
「か、柏木兄さんはどうでした?」
「まあ、迷いはなくなったかな」
 そう言って、小さく口端を上げる。
「柏木兄さんでも迷うことがあるんですか」
 兄さんが、しげしげと俺の顔を見下ろす。
「俺も人の子だからね」
「おい、柏木ー。指名だぞ」
 歩いてきた男衆に言われて、兄さんが小さく吐息する。
 男衆が、俺と柏木兄さんを見て言った。
「おまえら、無駄口きいてんなよ」
「はいはい、業務連絡だよ」
 しっかりやれよ、と声を張って、男衆が通り過ぎて行く。
「……ったく、ろくに口説く間もない」
「次々と別の座敷にやられたんじゃ、落ち着いて接客できませんよね」
 見上げて言うと、兄さんが横目で見下ろしてきた。小さく吐息して、ぽん、と肩を叩かれる。
「次は櫻の間だ。酒を持っておいで」
「はい」
 兄さんが、羽織をなびかせて廊下を歩いて行く。
 その後姿をいつものように見惚れながら見送って、俺は、台所に小走りに向かった。





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