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 飛ぶように毎日が過ぎていく。
 桜が散って、空が青くなったと思ったら、急に冷えて長雨になった。
 大部屋で何人かが風邪をひき、看病をしてから店に出る日が続く。
 直に、夕暮れ前に店が開くようになって。
(日が長くなった――)
 思った途端に、むっとした湿気と青い草の香が庭先から香るようになった。
 兄さん方が、街で『かき氷』という珍しい菓子を買ってきて、下っ端みんなで一口ずつ分け合ってはしゃぐ。
 夜は、といえば、相変わらず。
 千鳥足のお客。夜更けの廊下に漏れる喘ぎ声。柏木兄さんの胸には紅。暴れた客に、殴られる下っ端。心中願った女を、兄さん方から引き剥がす男衆。
 そんな宵の刃物沙汰もやっとこさ乗り越えて、夏が来た。


 *


 夏の夜には、魔が棲む。
 それには、ふたつの意味があった。
 ひとつは、気のおかしな客が迷いこむことがあること。
 もうひとつは、兄御が間違いを犯すこと。心惑わされ、身を持ち崩すということだ。
 客に本気になって店抜けをはかる。立場のある客を身ごもらせて、手打ちに遭う。客の借金の肩代わりになって文字通り身を持ち崩す、といったようなこと。
 不思議と、夏の暑い盛りと、冬の冷え込んだ頃に起こりやすい。
 夏には、人を狂わせる何かがあるのかもしれない。


 魔さえも手懐けるだろう柏木兄さんは、今夜も相変わらずの存在感だ。
 座敷の襖を開けた時はいつも、柏木兄さんの姿に真っ先に目を奪われる。
 お客を迎える時には、隙なく着物を着こなして、夜が深くなるほど下品じゃないくらいに着崩していくんだ。
 男っぽい喉、鎖骨と胸元。色気、という武器を余すことなく使ってみせる。
 『高嶺の花』と『触れなば落ちん』を同時に体現して見せる様は、傍付きの俺でさえ見ていてドキドキする。
 思わせぶりに視線をやったり、意味ありげに黙ってみたり。
 俺は、そんな姿に学ぼうとすればするほど、気がついたら兄さんの一挙手一投足に夢中になって、終いには『柏木兄さんのお客になってみたい』なんて考えている始末だった。

「夕凪。こっちへ来な」
 行灯の調整を終えたところで、盃を傾ける柏木兄さんに言われて膝を進める。
 酒のせいか、恋のせいか……頬を染めた年いきの女客が、隣に座る兄さんの視線を辿るように俺を見る。
 なんでも大きな庄屋の後家さんらしい。旦那の目を盗んで店に来ている、と話しているのを聞いたことがある。
「こちら、おまえにご興味があるそうだよ」
「へ」
 俺が思わず素っ頓狂な声を上げると、お客様は、ほほほ、と上品に笑った。
「前々からね、かわいい子だと思っていたの」
「ありがとうございます――」
 指をついて頭を下げると、お客様が言った。
「お年は?」
「間もなく18です」
「それなら、もう大人ね。お座敷には?」
「ええと――」
 ちら、と兄さんを窺う。
「今はまだ。俺がよしと言ったら上がることになります」
「いつ、よし、と言うの?」
「……それを教えたら、夕凪に貴女をとられてしまいそうだ」
 お客が、息を呑むのがわかった。俺まで、ゾクリとしたから。
 だって、兄さんの目が――。
「あなた――なんて目で私を見るのよ」
 たまらず、といった風にお客様が囁いて、俺も我に返る。
 ……危なかった。俺まで蕩けそうになった。仕事に意識を引き戻して、大きく息を継ぐ。
 兄さんが、熱っぽさをひそめて微笑んだ。
「嫉妬です」
「やだ……」
 酸いも甘いも噛み分けているはずの立場のある女人が、一瞬で女の顔になってしまう。
 それを目の当たりにして、俺は、兄さんを恐ろしくも。
 ……そんな目で見つめてもらえるお客を、羨ましくも思った。



 夜が深くなってくると、騒がしかった廊下も、お客を迎えるよりも送り出す方が多くなって静かになる。
 残っているのは、朝までの床客ばかり。
 俺たち下っ端は邪魔になるからそろそろ店を上がれ、という空気が満ちてくる。
 それでも柏木兄さんに付いている俺は、忙しなく廊下を走っていた。
 汗で、磨き上げた廊下を足袋が滑る。
「……っぶな」
 中庭に面した廊下に出ると、風鈴の音と冷えた夜風が火照った頬を撫でた。
 さっきから北風になったせいで、窓を開ければ冷や風が忍び込んでくる。
 店の熱気の名残を冷ますようなそれは、心地良いというよりどこか背筋が震える風だった。
(幽霊でも出そうだなあ……)
 台所に御膳を下げて、空いた部屋の片付けに戻ろうとすると、台所奥の若衆から声を掛けられた。
「夕凪。これ、柊の間な」
「はい」
 お銚子を乗せた盆を受け取って廊下に出ると、頭を突き合わせた男衆の会話が耳に飛び込んできた。
「柏木、平気かねえ」
(え?)
 思わず足を止めて、会話している受付の男衆二人に足早に近づく。
「あの」
「わっ! 驚かすなよ夕凪……」
「柏木兄さんが、どうかしたんですか?」
「おまえ、まだ残ってたのかよ」
「はい、座敷の片付けで――」
「そうか。いやな、今、ちょっと厄介なのが来てるんだよ」
「お客ですか?」
「若い男客な。うちの店に来るのは初めてなんだが、他店でやらかした客らしい。柏木を指名して入ってる」
 胸がざわついた。
 今晩も柏木兄さんに付いて手伝いをしたけれど……みんな馴染みの女客だった。俺はまだ、その男客に会ってない。
「何をやらかした人なんですか……?」




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