ふと、酒臭い匂いが離れる。
身体を撫でた風に、俺は目を開けた。
「あ、兄さ――!」
柏木兄さんが、男を羽交い締めにして俺から引き離したんだ。
その一物を握りこんだかと思うと、乱暴に激しく擦り立てて――。
「う、あ、ぁ……!」
男が、酔いすぎた身体をのたうたせる。
兄さんは、そんな抵抗なんてびくともせずに、男を押さえつけて擦った。
まんざらでもない様子で、男が身を捩らせる。
「や、やめろ、出る、出……っ」
「達きそうですか」
あくまで礼儀正しく振る舞いながら、兄さんは、うああと呻いた男を布団に押し付けて、その……そいつの一物を咥えたんだ。
「ぅあ……!」
兄さんのあまりの手際の良さと、その壮絶な光景に目眩がする。
俺は、快感にのたうつ男から逃れるように、布団の上をずり逃げた。
「うああ、すげえ……っ、すげえ……!」
興奮した舌足らずな男の声と、その脚の間で頭を動かす兄さんと。……酷く濡れた音が。
俺は、その光景を見ていることができなくて、目を伏せた。
ぼろぼろ涙が出る。なんでかわからないけど、泣くしかできなくなった。
「うぉああ……っ」
断末魔が聞こえて、急に部屋が静かになる。
恐る恐る顔を上げて見ると、男は布団の上に大の字になっていた。
「死っ……」
違う。大きないびきを上げて……寝てる。
兄さんはさっさと立ち上がって、座敷に歩いて行った。
ちり紙をとって、何か吐き出す。……たぶん、男が出したものだ。
傍に置いてあった銚子を掴んで、直接酒を口に含んで漱(すす)いでいる。その酒を煙管受けに吐き出すと、腕で口を拭った。
「あ、兄さん……」
「相当酔ってたからな。達けば疲れて眠るんじゃないかと思ったら正解だったね」
がーがーといびきを立てて眠る男に、俺は、呆気にとられていた。
兄さんは、着崩れた着物を直し、大股で俺のところにやってくる途中で自分の帯を拾って、手際良く巻き終えながら言った。
「立てるか」
差し出された手を握る俺の手は、震えてしまっていた。
ぐいと引き起こされて、慌てて着物の前合わせを掻き合わせる。
兄さんの手が、しっかりと俺の肩を抱いている。
歩いて部屋を出ると、どっと力が抜けた。ふらふらとした足取りで廊下を歩く。
「兄さん、すみません……俺、ご迷惑を――」
兄さんは、何も言わない。
……怒ってる。
当然だ。また、柏木兄さんの座敷を荒らしたんだから。
時々どこかの座敷の喘ぎ声が漏れてくる夜更けの廊下を、とぼとぼと歩く。
店の玄関まで来ると、兄さんは俺から手を離して、この時間帯の世話役が控えている部屋に顔を出した。
俺は、その背中を見ながら、店の上がり口で待つことにした。
手に掴んでいた自分の帯をのろのろと締める。
……手の震えが、止まらない。
「柏木!」
「無事だったか!」
酒乱の男を警戒していつもより多く控えていたみたいで、人の気配が多い。
いつもの飄々とした感じで、兄さんが言う。
「風呂沸いてる?」
「沸いてるよ。おまえの部屋に夕凪が飛び込んでいったって話だけど」
「ああ、助かった。一から十まで酒乱の相手をしないで済んだよ」
そうかそうか、とホッとしたようなみんなの声が漏れてくる。「あれはしばらく起きないと思うから。朝になったら送り出してくれ」
「おつかれさん、大仕事だったな」
そう声を掛けられて、兄さんが出てくる。俺を一瞥して、言った。
「風呂入ってこい。兄御の風呂場使っていいから」
「で、でも」
「身体流して、とにかく今日は寝ろ」
そう一言言い残して、兄さんは、兄さん方の部屋が入ってる舎への裏口へ歩いて行ってしまった。
その背中をぼんやりと見送る。
今度こそ俺は……柏木兄さんに愛想を尽かされてしまったかもしれない。
*
薄明るくなる空の色を窓から窺いながら、風呂に浸かる。
……悪夢だ。
そう味わうことはないだろう、ひどい体験だったかもしれない。
好きな人に触られたのに、甘い余韻がこれっぽっちもない。
怖かった。
酒臭い身体でのしかかられて犯されるところだった。
柏木兄さんが居なかったら、今頃、俺はどうなっていたんだろう。
「……男娼って、みんなこんな気持ちを抱えて仕事してんのかな――」
わかってはいたけれど、酷い仕事だと思う。
殴られたり、見世物にされたりもする。本意じゃない相手と、本番をやらされたりする。
……いちいち傷ついていたら、心がいくつあっても足りない。なのに、傷つく。
(俺、向いてないのかもしれない……)
向いてるとか向いてないとか、そんなことを言える立場でもないけれど。
この先のことを考えて、目眩がした。目の前が、真っ暗だ。
「あ……」
見下ろした自分の胸に、赤い痣。
柏木兄さんが、吸った痕だ。
眼の奥が痛い。視界が滲んで、湯船にぼたりと涙が落ちる。
「うぅ……っ」
嗚咽しながら、湯気に包まれる。
――泣くな。
俺なんかより、兄さんの方がもっともっとひどい目に遭ったのに。
……兄さんがあれ以上乱暴されることがなくて良かったんだ。今はそう思って、気持ちを切り替えるしかない。
頭でわかってはいても、心がついていかない。
兄さんがこの数年間に体験してきたかもしれない、地獄の一端を見たんだ。
好きな人が、こんな目に遭っていたなんて――。
悔しくて悔しくて、涙が出る。
「……ちくしょう……っ」
兄さんに、嫌われてしまったかもしれないことと。
こんなひどい世界があって、そこに自分がいること。
……好きな人が、こんな世界で生きていること。
全部が。
「地獄だ……っ」
窓から差し込む朝陽の金色(こんじき)が、憎らしかった。