風呂場を出て、大部屋に戻ると泥のように眠った。
思ったより疲れてた。
けれど、あの荒れた座敷を夢に見て、目が覚める。
夢の中には、柏木兄さんはいなくて。
俺はただ、酒臭い身体に犯されていた。
(後味、悪ぃ……)
もう一度寝直すと、今度は何の夢も見なかった。
「ん……」
陽に撫でられて目が覚める。
部屋を見回すと、皆はとうに起き出していて、遠くから朝食の支度の音が聞こえる。
眠れたせいか、身体は重くてもちゃんと動いた。
起きて着替えをして廊下に出ると、同部屋の子が何人かやってくるのと出くわす。
「お、夕凪! 聞いたぞ」
「なにを?」
「おまえ勇気あるな、昨夜、例の男の部屋に行ったんだって?」
「柏木兄さんを助けに行ったって話じゃないか」
「助けにだなんて――」
俺は何もできなかった。助けたなんて大それてる。「俺は足手まといにしかならなかったんだ、柏木兄さんが自力で切り抜けたんだよ」
「謙遜するなよ」
背中を叩かれてむせながら、気になっていたことを訊いた。
「例の男どうなったか知ってる?」
「帰ったよ。機嫌良くね。ご主人が男の父親の高級官職に話をつけるってさ。店一番の男娼が暴力振るわれたって、相当ふんだくるつもりらしいよ」
「さすがにその男、もう店には来られないだろうな」
「そっか、よかった……」
やっと心底ほっとした。何とかなったんだ。
別れ際の、呆れたような冷たいような柏木兄さんの顔が過ぎる。
……柏木兄さんには嫌われてしまったかもしれないけど、最悪のことにならなくてよかった。
「腹減ってるだろ、メシできてるぞ」
「あ……今朝は食欲なくて……昼に食べようかな」
「へえ、めずらし」
「後で味噌汁飲んだらいいよ」
そんなやりとりをしながら、下っ端の住まう舎の廊下を歩く。
「俺たち、今日、店の掃除当番だぞ。出られる? 夕凪は休んだら?」
「大丈夫だよ」
笑ったつもりが、引きつった。柏木兄さんの冷えた横顔を思い出す。
――これから何を縁(よすが)に生きていけばいいだろう。
いろんなことが、今朝、終わってしまった気がする。惚れた相手に嫌われるのは、綺麗事を並べてみてもやっぱり辛い。
ふと、一人が俺の顔を覗きこんでいた。
「夕凪。落ち込んでんのか?」
「え……あ、うん――結局、柏木兄さんに迷惑をかけたから。座敷を荒らしてしまったわけだし」
「でもさ、俺の兄さん……櫂(かい)兄さんは、おまえが行って良かったって言ってたよ?」
「へ」
櫂兄さんは、柏木兄さんの同期の人だ。相当の売れっ子で、店の二番手を争ってる。
「柏木兄さんがそう言ってたって。夕凪がいなかったら、自分の歯の数本はなくなってただろうって」
「そんな……柏木兄さんは優しいから、俺に恥をかかせまいってそう言ってくれてるだけだよ」
「だから、謙遜するなって。酒乱の座敷に飛び込んで身体張るなんて、普通はできねえことなんだから」
皆に一斉に背中を叩かれて、またむせた。それでも、重苦しいものが胸に残ってる。
裏庭を通って店に入る。各々掃除道具を持って、俺は、畳を掃こうとほうきを持って広間に向かった。
と、広い廊下の途中で数人の兄さんと……紅色と黒の艶やかな羽織を気だるく纏った柏木兄さんとが話している姿が目に入った。
ぎくっとして、足を止める。
柏木兄さんの姿を見た途端、急に昨夜のことが頭に浮かぶ。
――俺、あの人に、触られたんだ。
触られて、達かされた。やっぱりそれは、強烈な記憶で。
恥ずかしいこともたくさん言ってしまったし、それに……あの綺麗な手に体中を触られたこととか。綺麗な唇と散々接吻を――。
顔が熱い。胸がぎゅうってなる。
でも、今は気まずさの方が大きい。どんな顔をしたらいいかわからなくて、踵を返して逃げようとした。
けど、一緒に居た同期たちが兄さんたちに挨拶をした。
その拍子に、柏木兄さんがこっちを見る。
目が合って、息を詰めた。
……無視されるかと思っていたのに。柏木兄さんは、いつもの飄々とした表情のまま俺を見つめてくる。
俺は、挨拶の為に頭を下げた。
顔が上げられない。みんなに紛れて通り過ぎようーー。
「おい夕凪」
……若兄さん方に呼び止められた。無視するわけにもいかなくて、立ち止まって恐る恐る振り返る。
「今、柏木さんから話聞いてたんだよ」
「はあ……」
「昨日は男前だったらしいな。感心したぜ」
若兄さんたちがそう声を掛けてくれる。ありがたかったけど、でも――。
懐手の柏木兄さんが、涼しい目でじっと俺を見てくる。
(し、視線が痛い――)
「滅相もないです」
「あの手の客が捌(さば)けたんなら一人前だ。もう座敷に上がってもいいんじゃないか」
会話には入らずに、柏木兄さんが視線を庭へ逸らす。
ずき、と胸が痛んだ。
やっぱりこれは……愛想を、つかされてるみたいだ。
「例の男、朝出て行く時に"次は夕凪を抱く"って、そりゃ嬉しそうに出て行ったらしいな」
ぞく、と背筋が凍る。
「あれは、外で宣伝しまくるぞ。まあ、てめえはもう店には来られないだろうけどな?」
「男相手ってのは気の毒だがな、夕凪。この商売してるなら噂になるってのは願ってもないことだ。がんばれよ」
俺は、複雑な気持ちになりながら、箒を握りしめて言った。
「が、頑張ります……」
ふと、柏木兄さんがこっちを見た。ぎら、と一瞬目が険しく――。
あっという間に距離を詰められて、肩を掴まれる。
みんなが、息を呑む空気が伝わってきた。
「……夕凪。おいで」
言って、柏木兄さんが目を細める。真剣な顔だ。目が、怒りの感情を湛えて険しく燃えてる。
その怒りが伝わってきて、身体が震えた。
こんなに怒っている柏木兄さんなんてはじめて見る。ごくりと息を呑んだ。
あんな風に座敷を荒らすなんて、俺、思ってた以上にダメなことをやっちゃったんだ。
俺はただただ申し訳なくて、小さくなった。
「す、すみません、兄さん……大事な座敷を荒らしてーー」
「……さてはわかってないね」
柏木兄さんに凄まれて、びくっと身体が震える。
掴まれた腕を、ぐい、と引かれる。その場にいた人たちが慌てたみたいに声を上げた。
「かっ、柏木兄さんどこへ――」
みんなが思わず声をかけて止めようとするくらいに、柏木兄さんの気配は鬼気迫ってたんだ。
「じき戻るよ」
そう言い残して、柏木兄さんが廊下を足音を立てて俺を引っ張っていく。
俺は、何度もつまづきながら必死でついて行った。
(どうしよう。怒らせた。どうしよう……)
頭の中で、ぐるぐる回る。
何が一番いけなかった?
出しゃばったことは間違いない。
俺は、何をわかってないんだろう。何が柏木兄さんを怒らせたんだろう。
「柏木兄さん、と……夕凪?」
その声は、丁度、廊下の奥からやってきた紅緑のものだった。怪訝な表情でこっちを見ている。
とっさに、という感じで柏木兄さんの行く手を阻んで、紅緑が言う。
「柏木兄さん、穏やかじゃないですけど」
「おまえには関係ないよ」
短く言って、柏木兄さんがいなす。
けれど、紅緑が更に進路を阻んで言った。
「行かせませんよ。夕凪に乱暴するつもりじゃ――」
「乱暴されそうになったんだよ」
柏木兄さんの言葉に、紅緑が目を丸くする。
「な……」
「俺の教育が悪かったせいでな。だから責任取りに行くだけだ。そこをどけ」
柏木兄さんの静かな剣幕に、紅緑が困惑した表情で道を開けた。
紅緑の視線を背中に感じる。
俺は、涙目になりながら、兄さんに有無を言えずに引かれて歩く。
いろんなことが頭に浮かんでは、消えた。
2015/10/25
5へ続く