こひとうつしよ 4
朝までの客が粗方決まったようで、兄さん方は廊下に出てこなくなった。
傍付きも役なしの下っ端たちもみんな、舎に引き上げた。
そんな中、俺は、空いた座敷を片付けた後も店をうろうろしていた。
「おい夕凪、もう上がれよ」
廊下で出くわした男衆が、そう言って鼻を擦る。「おめえみたいな細腕が心配して残ってたってなあ、どうにもできねえよ?」
「でも――」
居ても立っても居られないんだ。
暴漢と柏木兄さんが、部屋にふたりきりなんて。
「お願いです、せめて居させてください」
「ダメだ。帰れ」
ぐい、と肩を掴まれて引かれる。廊下に足を踏ん張って、抵抗した。
「後生ですから、居させてくだ――」
突然、どどっ、と大きな音が廊下に響いた。
一瞬で、体が強張る。
「な、何の音だ」
てめえ、と張った男の声。
(例の男に違いない……!)
俺は、男衆の手を振り払って廊下を走り出していた。
「あ、ばか夕凪、待て」
後に続いて、男衆も走ってくる。
柊の間の前まで来て、一度深呼吸をしてから襖(ふすま)に向かって声を掛けた。
「お客様、何かございましたか」
「何でもねえよ!」
「御膳下げさせていただきます」
そう言って、俺は無理に襖を開けた。
八畳と、続き六畳の部屋。
床入り用の行灯が作る影の中、漆器や銚子が床に転がっている。
大柄な男が、酒で顔を真赤にして座敷に座っていた。
居丈高に顎を上げて淀んだ目で俺を睨みつけてくる。ひと目で高価とわかる着物が、その風体に似合っていない。
「お? 可愛いのが来たじゃねえか」
柏木兄さんが、一瞬俺を見て眉をひそめる。でもすぐに無表情に戻って、商いの笑みを口元に浮かべた。
「お酒お強いですね。注文最後になりますし、追加はどうです」
「んだよ……じゃあ徳利でもらうわ――」
言いかけて、男は、廊下にいる男衆の姿を目に止めると途端に不機嫌そうに眉を寄せた。「……いかつい野郎に用はねえんだよなあっ」
言って、茶碗を掴んで投げる。
「っ」
壁に叩きつけられたそれは、派手な音を立てて砕けて畳に落ちた。
……心臓が、どくどく踊る。それを悟られないように、俺は、表情を噛み殺した。
寝所を横目に見ると、まだ布団が敷かれていない。
俺は、下げる御膳を廊下の男衆に渡してから、お客にいつものように正座をして指をつく。
「御寝所用意させてもらいます」
「はいはい、どーぞお」
ろれつの回らない許しをもらって、続きの六畳に入って押入れを開けた。
中から布団一式を出して敷いていると、柏木兄さんと男客の会話が背中に聞こえた。
「一晩でお酒どれくらいいかれたことあります?」
「んー、そーだなあ、日本酒一升か」
柏木兄さん、お客を酔い潰そうとしてるのかな――思いながら布団の支度をしていると、男が言った。
「男と寝るなんてつまんねーなあ。女いねえのかよ」
「生憎、男娼の店ですから」
「ここに来る男は、全員陰間か?」
「そういう方もいらっしゃいますよ」
「気持ち悪ぃ……流行ってんのかしらねーけど、男同士で抱きあうって、なあ?」
何がおかしいのか、笑い声を上げている。
……あんただってこれからそれをするつもりじゃないのかと、胃がむかむかした。
この男が兄さんに触るなんて。寒気がする。
布団を敷き終わると、ちょうど廊下から声がかかった。出ると、男衆が徳利と猪口を持って控えていた。
盆を受取る間際、男衆が小さく言う。
「気をつけろ。何かあったら言えよ」
俺はそれに頷いて、盆を持って部屋に入った。
「日本酒です」
「はいはい来た!」
膝でにじり寄って、酒で赤く染まったでかい手に猪口を渡して酒を注ぐ。
「おまえはぁ……女じゃねえよなあ?」
「はい、生憎」
じろじろと品定めするような視線を愛想笑いでかわして、頭を下げた。
部屋の隅に転がった銚子や盃、砕けた茶碗と欠片を拾って、空いた盆に乗せる。踏まれて怪我でもされたら大事だ。
「もういいよ、下がりな」
柏木兄さんが言う。
でも俺は、部屋を出て行く気はなかった。
何をできるわけでもないだろうけど……いざとなったら男を殺してやるくらいの覚悟はあった。
ふと、兄さんの首に目がいく。
行灯に照らされた首に……指の形に痣が浮かんでいる。
(絞められた、のか……?)
怒りが湧いた。腹の底から。
噛み締めた奥歯がぎしっと鳴る。
――絶対、兄さんを一人になんてできない。
指をついて、男に向き直った。
「今晩、俺も同衾していいでしょうか」
「あ?」
柏木兄さんが、信じられない、といった表情で俺を見ているのを感じる。
「夕凪」
「よろしいですか」
――譲れません、柏木兄さん。
こればかりは、絶対に。
そういう意志をこめて、兄さんを睨む。
兄さんは、言葉を失ったように俺を見ていた。……怒ってるのか、呆れてるのか。その無表情からは読み取れない。
乱暴な男相手に、兄さんが枕をやらされるのは嫌だ。絶対阻止する。俺が代わりになったっていい。
初めて柏木兄さんの座敷に入った時のことが目の前にちらつく。胸元に手を突っ込んだ御仁。あの、濡れた音。
もう、あんな気持ちになるのは嫌だ。絶対に、柏木兄さんに触らせたくない。
あの時よりも俺は、いくらかは大人になったんだから。
「く、くくっ……別に構わねえよ? 男が一人増えようが二人増えようが……」
言いながら、男が酒をあおる。「何人も殴れた方が楽しいからなあっ」
カッと体温が上がった。
やっぱりこの男、はじめから男娼をいたぶるために来たんだ。
ぎゅっと手に力が入る。
最悪、部屋の花瓶で殴れば――頭の中でいろんな想定をした。
「この柏木とかいう色男がよ、俺に男の味を教えてくれるんだと」
男が、ふらつく手ぶりで酒をあおった。「都一番の男娼だろ? どんなもんか期待はしてるわけよ……でもいくら見てくれが良かろうが、どっから見ても男だもんなあ?」
暴漢が、ニヤニヤしている。
……なにがそんなにおかしいんだよ。
赤ら顔でにやつくそいつをじっと見据えてやる。
男客は、俺をじろじろと舐めるように見てから、口端をつり上げた。
「いいこと考えたぞ、おれぁー」
徳利を振って、ろれつのあやしい口調で、言った。