「女芸姑を手篭めにな」
「えっ」
「いいとこの坊っちゃんだそうで、女は泣き寝入りらしい。止めに入った男衆も殴られて大怪我さ」
絶句した。
そんなお客が……今、柏木兄さんの座敷に居るって?
「柏木は、腕力じゃ負けねえだろうからそう心配はしてねえが……女を手篭めにして泣き寝入りさせるような客だからなあ」
「お帰りになってもらいましょうよ」
「無理言うな、言ったろ? いいとこのお坊ちゃんだって。柊の間に入ってるよ。これからそれ、持って行くんだろ」
俺のお盆の上の銚子を見て、男衆が言った。
「は、はい」
「だめだ、男衆に任せな。おまえみたいな優男が目をつけられたら危ね――」
そう言いかけて、男衆が廊下の奥に目をやる。
その視線を辿って振り返ると、廊下の先から男衆が一人、足早にこちらに歩いてくるのが見えた。
「あ。夕凪、丁度よかった。それは俺が持って行く」
「え」
「おまえは別の座敷に行け。柏木がそう言っていた」
すうと血の気が引く。
柏木兄さんが、そんな気を利かせてくれたってことは、接客してみたらやっぱりヤバそうな客だったってことで――。
「あ、あの、兄さんは大丈夫ですか」
「おまえが気を揉むことじゃねえ、さっさと終えて上がりな」
盆を取り上げられて、背中を押される。
俺が追いすがると、男衆は眉を寄せながら言った。
「柏木は百戦錬磨だ。てめえが心配するようなタマじゃねえよ」
そうは言われても、心配に決まってる。
あ、と男衆の一人が声を上げたのにつられて振り返った。
柏木兄さんが、手拭きで口元を押さえながら廊下を歩いてくるところだった。
――え!?
……血だ。口端が切れてるみたいだ。
「柏木!」
「あ、兄さん……!」
俺が駆け寄る前に、男衆が柏木兄さんを囲んだ。
「殴られたのか」
「……手癖の悪い客だ。あれは酒乱だね」
兄さんが、頬を押さえながら言った。
例の、柊の間の客のことだ……。ぞっとしたものが身体を包む。
台所に走って湯呑みに茶を汲み、桶を持って戻った。
「兄さん」
俺を見て、柏木兄さんが一瞬目を丸くした。
「おまえまだ残ってたの」
「お口、ゆすいでください」
兄さんは、俺が差し出した湯のみを持って「気が利くね」と言うと、口をゆすぎ、差し出した桶に吐き出した。
俺は、兄さんから終わった湯のみを受け取って、頭を寄せ合い相談する男たちを見上げた。
「どうする。追い出すか」
柏木兄さんが、ふいと首を振る。
「親父が高級官職らしい。目をつけられたら厄介だよ、まあ……適当にほだすさ」
「そんなこと言ったって、おまえ、他に四部屋も指名で入ってるんだぞ」
「なんだ、二部屋増えてたの? もうお開きだってのに」
座敷に行けるかわかんないよ、と眉を寄せて兄さんが言う。
「皆さん、それでも待ってるんだってよ」
「手空きの兄御が居たら付けといて。男前の奴な。行けそうなら顔を出す」
こんな時でも飄々としている柏木兄さんに、みんなが頼もしい、って表情を浮かべる。柏木に任せておけば何とかなるかも、って……そういう顔だ。
(駄目だよ、そんなの……!)
酒乱は、お客じゃない。接客を楽しみに来ているわけじゃないんだ、ただの暴漢なんだから。
「か、柏木兄さん、追い返しましょう」
思わず分け入って言う。
「夕凪」
兄さんが、片眉を上げる。
「柏木兄さんは店の顔なんです。暴漢の相手をするなんてダメです!」
男衆が、ざわざわし始めた。
「そ……そうだよなあ。酒乱相手に接客も何もねえや。殴られに行くだけだ」
「店の顔がパンパンに腫れちまったら、お化け屋敷の看板に架け替えねえといけなくなるぞ」
「ひどいね、それ」
男衆たちが、追いだそう、と意見が一致しそうなところで声が飛んだ。
「ダメだ」
みんなが振り返ると、そこに立っていたのは店のご主人だった。「満足させて帰せ。柏木、わかってるな」
ご主人が、柏木に冷たい目を向ける。
満足って……それって――。
「おいおい……暴漢相手に枕やれってのかよ……」
一人がぼそりと呟いて、俺は、血の気が引いた。
「ご主人、柏木は店一番……いや、都一番なんですよ? 一見の、それも男客が床に上がれるような安い男娼じゃないんですよ」
「店の格式に関わりますって!」
反対意見が飛ぶ中で、ご主人はあくまで柏木兄さんを見据えて言った。
「官職の息子だ。いざという時のツテになる。充分、柏木に入れあげたお客たちと同じだけの利益になるだろうが」
「そんな――」
ご主人は、逢絢楼に貢献してきた柏木兄さんになんて無体なことを言うんだろうか。
焦って仰ぎ見ると、柏木兄さんは無表情だった。口端に血の滲んだ綺麗な顔は、氷のように冷たい。
「……まあ、寝れば話は早いね」
兄さんが、そう言って踵を返す。「床に入る。俺の指名を入れてる人はお帰り願って」
「わ、わかりました」
「ダメです兄さん……!」
俺は、柏木兄さんを追いかけて背中に縋った。「どんな目に遭わされるか……!」
「夕凪」
兄さんが、足を止めて振り返らずに言った。「俺の仕事に口を出すな」
強く突き放すような一言。
俺は、手で押されたように2,3歩後退った。
着物を捌いて歩いて行ってしまう、迷いのない足取り。
俺は、その背中をぐるぐる考えを巡らせながら見ていた。
「そんな……」
柏木兄さんが、怪我をさせられてしまう。
怪我だけじゃなくて……何か、命に関わるようなことをされたら――。
思わず、ぶるっと震えた。
……考えないと。どうしたら柏木兄さんを暴漢から守れるのか。
仕事に口を出すなとは言われたけれど。
「……傍に付いた兄さんを守るのだって、傍付きの役割のはずだ」
こうしている間にも、兄さんと暴漢との時間は過ぎていく。いつ、暴力を振るわれるかわからない時間が。
俺は、なけなしの知恵を絞って、考えた。
4につづく