「……何やってんだ、暗い中で」
兄さんの声だ。耳が痺れる。
覚悟を決めて顔を上げた。
藍の着物に縞の羽織を羽織った兄さんが、呆れた顔で立ってる。
「でも……充分明るいから」
俺の返答に、兄さんは小さく肩で息をすると、テーブルの向こうを通ってキッチンへ入って行く。月の光に照らされた着物が、深い色に見えた。
今まで、兄さんの着物姿に胸を踊らせていられたのは、俺がずっと子ども気分でいたからだ。
かっこいい兄さんは自慢だったし、誇りだったし……好きだったし。
それに、ずっと兄さんの傍にいられるものだと信じていた。
今は、兄さんを美しく思えば思うほど、胸が苦しい。
いつか離れる――それが、思ったよりもすぐかもしれないとわかって、浮ついた気持ちが消えた。
兄さんが、キッチンから出てくる。
500mlの天然水のペットボトルの口を開けて飲んだ。ごくり、と喉が動くのを見て、思わず俺の喉も鳴る。
「……兄さん」
声をかけると、章宏兄さんは静かに俺を見た。
疲れているのか、気だるい視線を床に落として壁に肩をもたせる。「なに」
「この間のこと、怒ってる?」
「……おまえに、謝ることはあっても怒る理由がない」
「どうして、謝るの」
「手ぇ出したから」
言われて、言葉を呑んだ。
「酒に酔った勢いで、弟に手を出したからだろ」
「そんな言い方しなくても――」
「事実だろ」
だって、俺も悪かったんだ……抵抗しなかった。
「……どれくらい、覚えてる?」
怖かった。けど、聞かなきゃいけない気がしたんだ。そうじゃないと、先に進めない気がした。
兄さんは、考えるように眉を寄せた。「最後まではしてないはずだけど」
「う、うん」
「おまえが気を失う直前くらいに、正気になった」
……なんだ。ほとんど覚えてないんだ。
一瞬、ズキと痛んだ胸を、ほっとした感覚で上塗りする。
――だったらまだ、引き返せる。
兄さんが、大きく息を吐いた。「夢だと思ってたから」
その言葉に、体が強張った。
「どこまでおまえにしたのか……境目がわからない」
どくどく、と耳の奥で心臓の音がする。
苦しそうな顔。
静かな青い光の中、兄さんが口を閉ざしている。よくできた人形に見えて、一瞬、現実かどうかわからなくなった。
「……おまえを、怯えさせたんじゃないかって」
「そ、そんなことない」
俺は、慌てて否定した。
嫌じゃなかった。だって、好きな人にされたんだから。
でも、そのままの気持ちは、口にはできない。
「俺だって、途切れ途切れの記憶しかなかったから……夢かなって、思ってたぐらいで」
兄さんが、床に視線を落としたまま黙ってる。
……俺、また嘘を言った。
本当は全部覚えてる。熱い手とか声とか、唇の感触も、有無を言わさず引き寄せる強い力だって。石鹸の香りも全部。
でも。そんな……弟にひどいことをしたかもしれないって苦しんでる顔を、見たくない。
何もなかったことにしたい。
(元に……戻せそうな気がする)
だから、兄さん。
お願い。
「だから俺、全然気にしてないから。でも、兄さんが謝った方がすっきりするっていうなら……」
それで、全部なしにしようよ――。
祈るように、その横顔を見つめる。
「……おまえは、それでいいの」兄さんが、呟いた。
今度は、俺が黙る番だった。
――いいの、って?
舌が凍りついたみたいに、動かない。
(……どういう意味だろ)
こわい。うんって、言っていいのかわからない。
兄さんも動かずに、視線を床に落としてる。
俺は。俺は――。
「……うん。いい」
兄さんが一瞬、俺を見た。
ゾクリとするくらい、冷えたような、熱い目だった。
「……すまなかった」
呟くような声を、俺は何も言えずに聞いていた。
「もう、あんなことはしないから」
そう言って、兄さんは壁から体を離して、ドアに向かって歩いて行く。手の中で水音を立てて、振り返らずに部屋を出て行った。
俺は、いつの間にか握りしめていたグラスをテーブルに置いた。
指が震えて、止まらない。
「……元に、戻った」
これで、間違いはすべて正せた?
俺は、兄さんと今まで通りの関係に戻れたのかな。
あの夜のことは夢だったと思えばいいんだよ。ちょっと、間違ってしまっただけなんだ。
「元に……戻ったのかな」
グラスがあっという間に滲んで、パタ、という音と一緒に、元の景色に戻る。
……俺だけ、戻ってない。
俺の中のすべてがバラバラのまま、ずっと、理性だけが俺を喋らせていた。
――なかったことにしないで。
――もっと触って。俺のことだけ見て。
――兄さんのことが好き。
俺の中で、消そうとしていた自分が暴れる。
なんで、俺の気持ちを殺したんだ、って。どうしてあの手を他の人に渡せるんだ、って。
「だって……仕方ないだろ……っ」
どうすればいい?
兄さんになんて言えばいい?
好きだって、何もなかったことにしないで、って?
誰かのものになってしまわないでって……?
(無理だよ、そんなの――!)
これ以上、俺を責めないでよ。
「……っ、うぅ……」
苦しい。
――胸が、裂けそう。
気がついたら俺は、廊下に走り出ていた。