◇◇◇
「ただいまー……」
玄関で靴を脱ぎながら、家の中に向かって声をかける。
もう夜の9時だから、サチさんは帰ってるだろう。
兄さんも帰ってないみたいだ。
(今日は……帰ってきてくれるかな)
どんな顔して会えばいいだろうって、ずっと考えてる。
ネクタイを外しながら、階段を上がって部屋に入る。
鞄をタンスの上に置いて、シャツのボタンを外し、制服をハンガーにかける。
「……自分を大事にしないクセ――」
久留米に言われた言葉。
どういう意味なんだろう……よく、わからない。
「……あ」
はっとして、机に伏せていた顔を上げる。
宿題を広げてから、いつの間にか寝ていたみたいだ。時計を見ると、23時を過ぎている。
(兄さん帰ってきたかな……)
部屋を出ると、シンと静まり返った薄暗い廊下には何の気配もなかった。
台所に向かう自分のスリッパの音だけが響いて、独りだ、とふと思う。
この広い家に、たった一人。
偶然のように施設からもらわれてきて、偶然のように章宏兄さんに会って。偶然のように好きになって――。
思えば、章宏兄さんが成長して、西村を継いで、家柄の確かな女性と結婚するってことは偶然じゃなくて最初から決まっていたことだ。
(だったら、偶然だらけの俺は諦めて当然か……)
これが、正しいんだ。
リビングを抜けてキッチンへ向かう。冷蔵庫から紅茶のボトルを取り出してグラスに注いだ。
レモンの爽やかな香りが鼻に抜ける。
「俺……なんでここにいるんだろ……」
考えこむと暗くなりそうなテーマだ。リビングに戻って電気をつける。
椅子に膝を抱えて座って、アイスティーを飲みながら全然関係ないことを考えることにした。
「宿題終わらせなきゃな、あと2問……明日、わかる人に教えてもらおうかな」
そういえば兄さんは、俺が高校に上がるまで、頼めば勉強を見てくれた。
教え方がすごく上手くて、稽古で毎日忙しいのに、いつ勉強してるんだろうなって思った。
俺も兄さんへの甘え方を知っていたし、今よりずっと兄弟らしかったような気がする。
いつからか、うまく甘えられなくなった。
きっと、兄さんが好きだって気づいた頃からだ。
「好き――」
どこを?
どんな風に?
俺は、なんで好きになる相手が女の子じゃなかったんだろう。
(……違うよな。男とか女とか関係なくて、相手が章宏兄さんだから好きになって――)
俺が妹だったら、兄さんとうまくいったのかな。
「……そんなのやっぱりムリだよ」
どこまでも、どんな立場になったとしても、西村家の人間だということがついて回る。
そもそも、何がどう転んだって無理だ。兄さんが、俺を相手にしてくれるわけもないし。
どうしようもない考えが、何度も頭を巡って止まらない。
「はあー……」
(……どうして義理の兄さんなんか好きになっちゃったんだろ……)
こんなに苦しいならもうやめたいって思うのに、気づくと兄さんの事ばかり考えてしまう。
――こんな調子で諦められるのかな。
ふと、兄さんに会うのが怖くなった。急に、どんな顔をすればいいのかわからなくなった。
部屋に戻ろうとして立ち上がったのと同時に、玄関が開く音がした。
とっさにリビングの電気を消す。息を殺して、椅子に座って小さくなった。
父さんは今海外にいるはずだから、兄さん以外にない。
――……今日は、帰ってきた。
少しほっとして、でも、会いたくない。
会いたいのに会いたくないって、変な気持ちだ。
兄さんはきっと夕食もどこかで済ませてきていて、リビングには来ないだろうから……やり過ごして部屋に戻ろう。
廊下の窓から差し込む月の光が、リビングのドアのガラスを抜けて、家具を照らしだしている。
抱えた膝に額を預けた。
「……何やってんのかな、俺」
ふと、月の青い光が遮られて、人影がテーブルに伸びたのがわかった。
ドアの開く音がして、絶望的な気分とその真逆の胸の高鳴りに目眩がした。