「朝から物騒だねえ」
気だるい調子の声が飛んできた。
着崩した上等の着流しを懐手に、黒の羽織を肩にかけて。廊下の壁に背を預けてこっちを見ている人――。
「かっ、柏木兄(かしわぎ・あに)さんっ」
思わず叫んだら、すがるような声になって、慌てて口をつぐむ。
柏木兄さんは、ふあーと大欠伸をして目元を拭って言う。
「夕凪が何したの」
「なんだ柏木、客はどうした」
「とっくに見送ったよ」
肩にかかる長い髪。一見、女人のように妖艶だ。
けれど、厚い胸と高い上背、すらりと伸びた手足はどう見ても男の人。
ゆるく着物がはだけたその胸元に、花弁のような紅(べに)がついてる。
柏木兄さんにはよくあることなんだけど……俺は、見ていられなくて視線を下げた。
「柏木、おまえの出る幕じゃねえぞ。これは、新人教育だからな」
「とは言えね……客が残ってる部屋もあるってのに、店中に響き渡る声でさあ。あ、爪が割れてら」
兄さんは、どうでも良さそうに丸めた指先を見てから、胡乱(うろん)な目でご主人を見る。「妙な噂が立つよ。いいの?」
飄々とした物言いに、ご主人が喉の奥で言葉を詰まらせた。
「早く湯浴みしたいんだよ。体液塗れでね……べたべただからさ」
た、体液、って――かっと頬が熱くなる。柏木兄さんに横目で見られて、息を呑んだ。
「さっさとその子を貸してくれ」
ご主人は、舌打ちをすると俺に顎でしゃくってみせた。
「夕凪。行け」
言われて、足を引きずって這い立ち上がる。
「おい柏木! 首突っ込むならなあ、てめえがきっちり教育しておけ!」
さっさと廊下を歩き出す柏木兄さんの背中に、ご主人の野太い声が叩きつけられた。
俺は、つんのめりながら慌てて兄さんの後を追う。
見習い達の遠巻きの視線が追いかけてくる。野次馬ってだけじゃない。みんな、柏木兄さんを見ているんだ。
柏木兄さんは、ここらの大歓楽街じゃ押しも押されぬ男娼で、夜の世界の成功者だ。
見習い達にとっては目標であり、尊敬の対象でもある。
どんなに不機嫌に来た客でも、柏木兄さんが相手をして帰す頃には目が蕩けるんだ。
店には、兄さんをひと目見たいって人が連日絶えない。金はないから下女にしてくださいって町娘も、日に何人か訪ねてくる。それを追い返すのは、見習いの仕事だ。
そんな柏木兄さんは、毎日身体を張ってお客の相手をして疲れてるはずなのに……こんな下っ端の俺に助け舟を出してくれる。飯を抜かれていたら、誰かを遣わせて食わせてくれる。虫の居所の悪いご主人に殴られていると、ふいに現れて先刻のようにいなしてくれる。
それを恩に着せるようなところも、偉ぶるところもない。
……そんなの、惚れるなっていう方が無理だよな。
そう。
俺は、この人に惚れてる。
みんなにとっての夢の人は……俺にとっては、恋しい人なんだ。
憧れだとか恋心だとかがグチャグチャに混ざった中に、この人がある。
廓の三大病は、りん、瘡毒、恋煩い。
(……よりにもよって、一番厄介なもんにかかるなんて……)
街一番の男娼に、鳴かぬ飛ばぬの下っ端男娼が惚れるなんて笑い話にしかならないのに。
前を行く兄さんの髪がなびくのを見ながら歩いていると、甘い香が鼻腔に忍び込んでくる。兄さんのじゃない。……お客からの移り香だ。
いつも胸が潰れるほど痛むけど、俺には項垂れる資格が無い。
目の前の背中は遠すぎる。身分が違いすぎるんだ。
こんな掃き溜めの世界にだって、上界と下界がある。
柏木兄さんは、上界の雲の上の人だ。その気になれば、この掃き溜めなど振り返りもせず飛び出していける。
これは俺の、一生かけた片想いだ。
俺は、会ってしまった。
この人の為なら、死ねると思える人に。