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 脱衣所に着くと、兄さんは、人差し指で羽織の首元を引っ掛けて籠に投げた。
 俺は、様(さま)になったその姿を横目に見ながら、湯気の立つ檜風呂の中をのぞく。
 綺麗な湯が張ってある。手を突っ込むと少しぬるい。
 この風呂場は、柏木兄さんみたいな指名上位の兄御(あにご)が使う特別な風呂場だ。
 特に朝は、兄さん方が次々と使うので、使い終わったら必ず新しく水を汲んで沸かしておく。それも見習いの仕事。
 俺は、勝手口から外に出て、裏に回り薪をくべた。くすぶっていた火が燃え上がると、その前に座って竹で吹く。
 ガラッと目上にある引き窓が開いて、柏木兄さんが顔を出す。
 目が合って、ドキッとした。
 艶のある眼差し。魂を……吸われてしまいそうな。
 口を開けてぼおっと見上げていたら、兄さんが髪を掻き上げて口を開く。
「酒が抜けてないからぬるめでいい。こっち来て背中流せ」
「は……はいっ」
 シャン、と窓が閉められるのと同時に、2、3度火を吹いてから小走りに風呂場に戻った。
 脱衣所にあったたすきで袖を上げる。さっき畳で擦った背中が悲鳴を上げた。
「い……っつ」
 痛みに構っている暇はない。
 背中流し用の手ぬぐいを持って、浴室に入る。
 柏木兄さんは、着流しを腰まではだけて木椅子に座って待っていた。膝に頬杖ついて、うつらうつらしている。
 兄さんの裸の上半身に、一瞬胸が踊った。
 ……ダメだって。きっちり仕事しないと。
 頭を振って煩悩を払う。桶で湯をすくって、手ぬぐいを浸した。
「失礼します兄さん」
 微睡みを邪魔しないように小さく声をかけてから、兄さんの長髪をまとめて左肩の向こうへ寄せる。
 甘いお香と汗の匂いにほんの少し混じる……生々しい匂い。
 ここまで近づくと、その微かな香りがわかる。
 兄さんは、体液、とひとくくりに表現していたけれど、床で使う香油、愛液や精液の匂いなんだろうと思う。
 胸の中にかかったもやを、ため息でそっと吐き出す。
 一度肩からゆっくりと湯をかけ流すと、その仄かな残香は、あっという間に消えてしまった。
「あの……さっきは、ありがとうございました」
 広い背中に頭を下げる。返事は期待してなかった。
 やっぱり兄さんは、眠気で船を漕いでいる。
 膝立ちになって、目の前の首根の辺りに手ぬぐいを押し当てた。兄さんが前に傾ぐように頭を落とすのを合図に、肩から順にたっぷりの湯を含ませた手ぬぐいを置く。
 含ませた湯は溢れて、兄さんの背中をするすると滑り落ちていった。
 その雫が、背中に浮いたみみず腫れをなぞる。
(う……痛そう……)
 無数に走って、血が滲んでる。
 ……寝所でできる、引っかき傷だ。
 初めて見た時、何かわからず驚いていたら、『おまえも店に出るようになったらわかるよ』って言われて。改めて仲間に訊いたら、みんな口を揃えて、前の晩に兄さんがどれだけお客を満足させたかの指標だ、って言った。
 気が悦くなりすぎて、たまらずに爪を立てるんだとか……。
 ずき、と胸が痛む。
 なんで、爪を立ててしまうんだろう。
 柏木兄さんに抱かれたら。俺でもやっぱり爪を……立てちゃうのかな。
 ……――そんなこと、一生あるわけはないんだけど。
 じわあと背中が熱くなって、唇を噛む。
 と、兄さんが大きく息をついたから、びくっと手が震えてしまった。
 やましいことを考えたのが、伝わったのかと思った。心臓に悪いよ。
 呼吸に合わせて、背中の筋肉が膨れる。肩や腰に備わった逞しいそれが、羨ましい。
 兄さんが、角材で素振りをしたり、腕立てをする姿を見たことがある。
 飄々としているけど人知れず努力もしているんだと知ったのは、俺が、柏木兄さんのお傍付(そばづ)きになってからだった。


 2へつづく




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