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墜落のガブリエル



偶像崇拝・後編






 悪夢のバザーから、数日後。
 朝起きて行くと、母さんが足を引きずっていた。
 昨夜、父さんが来たからだ。兄貴は、相変わらず家にいない。
 ……なんで、いつもこうなるんだろう。
 学校から帰ってきてすぐ、母さんの代わりに買い物に出る。
 熱でギラギラするアスファルトの上で煮られながら、ぼんやり歩いた。
 ――あの、白いシャツの人が目に浮かぶ。
 あれから何度も思い出すんだ。
 俺の兄貴と同じ頃の人が、重い荷物を運んでいるあの場面。
 あれが景色だとしたら、いつまでもそこにいて見ていたいような……そんな人だった。
 ……俺は、あの人に何を求めてるんだろう。
 あの静けさ。あの、包み込むような雰囲気?
 話してもない人なのに、どれだけ縋ってるんだろう。
 違う世界の、美しい人。
 思い出しては、すぐに記憶を閉じる。切ない余韻が残って哀しくなるから。


 近所のスーパーは冷房が効きすぎていて、会計を済ませた頃には体が冷えきってた。
 サッカー台で感覚のない手を騙し騙し、袋詰めをする。
 腕が、鉛みたいだ。
 ……ずっと、こんな風に生きて行くのかな。
 大人になれば何か変わるかな。ここから逃げ出せるかな。
 でも、兄貴を見てる限り希望は持てない。あの家に母さんを一人置いていくわけにもいかないし。
 そうなると、母さんと一緒にあの家を出る必要がある。
 でも、どこに行けばいいんだろう。
 ようやく出れたとしても、父親に居場所を突き止められたら終わりだ。
 毎日、酔った男の影に怯えながら暮らすのかな。だったら今と変わらない。
 未来が、真っ暗だ。
「……だったらもう、殺すしか……」
 思わずそう、呟いていた。
 頭の中で、いろんな方法が駆け巡る。
 刺すのは怖い。血が出るし……一度では死なないかも。
 殴りつけるのも同じだ。俺ぐらいの力で殴って死なせることは可能なのか――。
 反撃にあったらどうする?
 力じゃ負けるよな。きっと、俺の方が殺される。
 毒を飲ませるわけにはいかないかな。酒に混ぜてみたら――。
「君」
 声をかけられて、びくっとする。あまりのタイミングだったから。
 振り向いてみて、今度は息が止まるほど驚いた。
「あ……」
 あの、若い神父が立ってる。
 今日の白いシャツは半袖だった。黒いスラックスと、何か買い物があったのか小さな袋を下げている。
 胸が速く鳴り始める。
 幻かと思ったけど、こっちに歩いてくる足音が現実めいてた。
 ……いや、変だよ。
 なんで、こっちに来るんだ……?
「こんにちは」
「……は、あ……こんにちは……」
 俺がいるサッカー台の横で足を止めた神父は、数日前と同じように微笑みの気配を全身に纏ってる。
 穏やかだけど意志の強そうな目と、伸びた背筋は品がある。やっぱり、絵や石像の大天使みたいだ。
 すぐ傍に立たれると見上げるしかない。
 それにしても……スーパーマーケットが似合わない人だ。こういう綺麗な人は、天国みたいに綺麗な世界で生きてきたんだろうか。
「日曜のバザーに来ていましたよね」
「行って……ましたけど……」
 どういう風に受け答えしたらいいんだろう……取っ付き方がわからない。年上相手に、どう話したらいいか困ることなんて初めてだ。
 だって、こんなに一分の隙もない人、初めてだから。
 宗教者らしく整った服装は、今日も猛暑の暑さなのにまったく乱れがないし。掻き上げられた髪も表情も、季節なんか関係ない、っていうくらいに涼しげで。
 でも……優しいはずの眼差しが、威圧してくる。
 ついさっきまで、人殺しの方法なんて考えてたからかな。あんまり真っ直ぐ見られると、心の内を見透かされるんじゃないかって気が気じゃないんだ。
「もう体調はいいのですか」
「え?」
「倒れたでしょう」
 この人の耳にも入るくらい騒ぎになっていたんだろうか。
「はい、もう大丈夫です」
 学校でそうするように、優等生の仮面を被って話す。
 こうしておけば、大人はみんな勝手に機嫌良く話すから。俺の方も、いろいろ深く訊かれなくて楽だ。
「それはよかった」
 ……わ。すごい綺麗に……微笑むなー……。
 一瞬、ぼおっと見惚れる。
 こうして傍で見ると、やっぱり若いんだ。確かに振る舞いや表情は落ち着いてて大人っぽいけど、もしパーカーとか着て大学生だって言われたら、しっくりくると思う。
「私は、教会の神父です」
 心の中で、知ってます、って返事する。
「イエルナ徹と言います」
 徹、って言うんだ。名前。
 イエルナ……見た目は日本人だけど、外国人なのかな。
「外国人ではないですよ。祖母は外国人でしたが」
 ……あれ? 俺、今、声に出てたっけ?
 すると、徹神父は、思わずって感じに小さく笑った。
 笑ったんだ。この、微笑を崩さぬ大天使が。
「……君とは、言葉なしでも会話が成り立ちそうですね」
 言われた意味が一瞬わからなかったけど、要は、表情から考えてることを読まれたんだ。なんか恥ずかしくなってきた……顔が熱い。
「ああ、すみません。からかったつもりでは」
 よっぽど俺の顔が赤かったのか、徹神父が苦笑する。「荷物重そうですね。持ちましょう」
 2つの買い物袋を指さして、徹神父が言った。
 押し付けてこない眼差しに抵抗できなくて、2袋の内の1袋を手渡した。一瞬手が触れて、慌てて引っ込める。
「……手が冷たいですね。空調で冷えましたか」
 気遣うような声に、そうかもしれません、って返事する。
 会えて……話せて嬉しいって思うのに。
 ここ数日、頭がぼんやりしているせいでうまく反応できなかった。
「君の名前を聞いてもよいですか?」
「え……?」
 一瞬迷う。俺の名前なんかきいて、何の得があるのかな……。
「空良、です――」
「空良……いい名前ですね」
 徹神父の声で呼ばれると、俺の名前が特別な言葉みたいに聞こえて不思議だった。
 バザーのあの日。
 この人と話してみたいって思っても叶わなかったのに、なぜか今こうして話してる。
 ……こんな声、してたんだ。
 静かで、優しい声だった。





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